後半は峠越えなど懐かしい風景に出会ます。

↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
永昌宿で別ルートである"多良海道"と合流すると
進路を西へと大きく変えます。
午後に西向きに歩くことは辛いものです。
9月下旬にも関わらず30度越えの道中となってしまい、
真夏かのように少し進めば休憩を繰り返しました。

この辺りは明治の地図によれば松並木があったようです。
今も松並木があれば少しは楽に進めたのでしょうが、
やはり影がないと過酷度は増しますね。

今昔マップより

ここは島原城からの道との追分。
どことなく昔の追分の雰囲気が漂います。
ここで言う島原道は下の図で薄い赤線(一部)を現します。
一方、赤線はというと長崎と島原を結ぶメインの道筋です。


この辺りの道筋は非常に複雑ですね。
ちなみに島原は熊本に渡る船があったことから、
肥後、薩摩への絶好の近道になっていました。
複雑になっているのは多数の人が通るので
城下を迂回させたい思惑があったのかもしれません。


お馬の水。
この辺りからアップダウンが多くなってくるので
馬にとって恵の水だったことでしょう。
諫早インター付近にかけての旧道は、
工業団地が建設されていて消滅箇所が多めです。

こういう場所でも昭和40年代の航空写真を見てみると、
開発以前の旧道がくっきりと確認することが出来ます。
消滅箇所は迂回する必要がありますが写真のおかげで、
昔の道筋に近い場所を歩けるのは有難いことです。

貝津橋を渡った先にあった貝津茶屋跡。
諫早方面の眺めが良いものでした。
たんたんと新興住宅地の中を進んでいくと、
いきなり江戸時代を彷彿させる光景が出現しました。
赤松坂です。

距離は短いですが昔ながらの道筋です。
石が敷き詰められています。
赤松坂の由来は入口付近に松の大木があったからで
名残の松なのか傍らに若い松が植えられています。

ちなみに坂の中間は幅広になっています。
これは荷車同士の離合を考えてのものだったそうです。

トンネルに描かれた長崎街道の絵図。
こういう演出は嬉しいですね。
今までの道中が走馬灯のように蘇ります。
いよいよ山深くなってきて旧茶屋地区へ。
県道沿いには松が植えられ暑さを和らげてくれます。



この右手に写る井戸の辺りが上の茶屋の跡。
何やら坂本龍馬も休んだという話があるそうです。
殿様が休んだのは下の茶屋で別の場所にありました。

久山の一里塚。現存です。
ふと、ここで疑問。
佐賀県内を歩いた時は長崎街道で現存なのは
神崎付近の1か所しかないと現地の案内板にありました。
でも、実際は彼杵のも含めると3か所になるんですよね。
長崎街道は比較的大きいほうの街道ですし、
このような間違いはあまりないと思うのですが、
基準が町によって違うということかもしれませんね。

それはともかくとして、
久山一里塚は今も塚の周りに石を積んで保護してあって、
往時の一里塚の様子がわかる貴重なものです。
各地にあった一里塚も石を積んだ例があったのですが、
石の大きさを見ると使いやすい漬物石サイズなことで、
明治になると家に持ち去る人が多かったといいます。
久山の一里塚は山奥だったことが幸いしたのでしょう。

群境石。
長崎県内では丁寧に色付けされたものを見かけました。
下の写真は清水神宮の湧水。
古くから枯れることなく今も冷たい水が湧き出ています。


この付近は井樋ノ尾峠と呼ばれる山間の道。
眺めが良い場所には茶屋が点在してました。
遠くには大村湾が見え、さらに奥に見えるのが大村城下。
長崎街道が海を大きく迂回してる様子がよくわかります。



こちらも茶屋の跡。
建物は古いものなので江戸期のものでしょうか。
やがて、住宅地が見えてくれば古賀の集落に入ります。
古賀には藤棚茶屋跡がありました。
今も当時の面影が色濃く残っていますが、
茶屋で休む人を相手に人形を売ったところ人気になり、
やがて古賀人形として有名になっていきます。




この地蔵には以下の話があります。
ある女性が川で洗濯していた時のこと、
戦いに赴く兵団の長に合戦場への距離を聞かれます。
「3町ほど」と言ったところ「3里」と聞き間違えてしまい、
そのまま進んだところ当然ながら敗退してしまいます。
敗走中に戻ってくると女性がまだ洗濯中だったので
速攻、打ち首に。それから人魂が出るようになったそうです。
うーん、さぞ女性は無念だったでしょうね。

この日は肥前古賀駅付近で終えることにしました。