2回に分けてお届けします。
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八郎川は井樋ノ尾を水源として天草灘へ流れます。
当地は水害などが多かったようで、
改修で昔の流路と違う流れになった場所があります。
街道もその影響を受けている部分もあって、
完全に新道に付け替えられた個所が多いのです。

今は昔の地図や航空写真などを
家にいながら入手できる時代になりました。
おかげでこれらの変化を把握して歩くことができるので
忠実に歩きたい諸氏にとって楽な時代になりました。
ちなみに、現地で頼りになるのは石碑です。
下の写真の「村道改修記念碑」が建てられてあるように
改修があった事実を伝えてくれています。

村道改修記念碑

川には昔の川渡しを彷彿させるような
石渡り用の石が置かれていました。
かつてあった「楠川の渡し」とは別であるものの、
場所的に約100mの違いですし往時を知るには十分でしょう。


西九州新幹線の高架をくぐった先が矢上地区。
矢上は昭和57年の長崎大水害で壊滅的な被害を受けました。
水害地から少し離れた山の際にあるのが矢上宿です。
矢上宿は島原街道と交わる追分となる場所で
島原を経て舟で肥後や薩摩へ向かう人もいたことから
かなりの往来があって賑わっていたといいます。



矢上八幡神社にある大楠は見事なものです。
幹囲は10m近くもあり神社建立以前からあったそうです。
ちなみに、八郎川の名前の由来は
鎮西八郎為朝という弓の名手からきています。
宿場入り口にあった八郎川に架かる橋から
この大楠を的にしていたというから大したものです。

八郎川に架かる橋


番所橋と番所跡。
矢上は佐賀鍋島藩の領地だったわけですが
長崎奉行地に接していたので警備が厳しかったといいます。
番所橋は番所のそばにありました。
宿場の長崎側出入口に位置していたことから
災害で流されても即修復する程の重要な橋だったそうです。
昔の写真を見ると実に立派なものです。

番所橋の昔の姿。
かつては海が目の前だった矢上地区ですが、
江戸時代の中頃になると埋め立てが進められます。
街道はこの先では平地があるにも関わらず、
アップダウンのある山の麓を進んでいきますが、
これは山裾まで海が広がっていた何よりの証拠です。

平地があるなら新道を作ればいいのにと思うところですが、
多くの人や荷物が通るには地盤が安定していないことや、
地盤の低さから洪水になると何日も通れなくなるのは
大問題といった理由があったのでしょう。
まぁ、何より金銭的な面も大きかったのかもしれません。

鳥合場(とろしば)
この辺りは随分と急な坂になってるのですが、
坂道での荷物運搬を取り合ったというのが由来です。
なんとも独特な読み方で由来も面白いですね。
坂を上りきると領界石がありました。
ここを境に佐賀鍋島藩から長崎奉行支配地となります。


ここからの下りは腹切坂です。
物騒な名前ですが勿論切腹からきています。
村人が武士に対し試合をしかけたところ、
あろうことか武士が負けてしまいます。
村人も必死だったのでしょうが
この結果、武士の面目は丸つぶれで自害してしまいます。

この腹切坂ですがバイパス工事の影響で、
半分近くが消滅してしまっています。
残り半分はというと藪化が進んでいて、
暑い時期の訪問だったので藪の勢いは旺盛で
「長崎街道」の看板があっても探索が厳しいほどでした。

国道から腹切坂を見たのが下の写真。
ここは清く撤退して迂回するのが正解でしょうね。


腹切坂を下った先にあるのが日見宿です。
この先には西の箱根といわれる「日見峠」が待ち構えています。

長崎まで2里、矢上から1里の場所に位置していることから
宿泊は少なく殆んどは休憩目的の宿場ではありましたが
峠にこれから挑む者、峠から下ってくる者を考えると
重要度はかなりのものだったことと思います。