2015年02月05日

高槻街道・南茨木→富田→高槻

道中には道標がいっぱい。
大阪から高槻城下への街道です。

IMG_6094.JPG


↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

IMG_6091.JPG

梅雨時の宇野辺(南茨木)より出発します。
ここは亀岡街道との追分にあたります。

IMG_6092.JPG

立派な道標がありました。
「亀岡街道」「高槻街道」

作りが新しい上に街道と書かれているので
明治以降に作られたものでしょう。

IMG_6100.JPG

元々は高槻街道(高槻道)は
大阪の高麗橋を起点としています。

街道の名前や街道の起終点については
江戸時代の庶民にとってはあまり関係ないものですが
明治になるとこれでは不便だということで制定されていきます。

この時に制定された高槻街道の定義では、
なぜか宇野辺から高槻城下の区間のみを指すようになって
高麗橋−宇野辺間は亀岡への亀岡街道と変更されています。

何か理由があってのことなのでしょうが、
大阪から亀岡方面に抜ける道は何本かあったので

「道路改良したので亀岡に抜けるのにこの道が便利だよっ!」
「わかりやすく名前も亀岡と付けちゃったよっ!」

と、おそらくはそういう理由なのでしょう。

IMG_6102.JPG

奈良の集落に入ります。

大阪での渋滞の名所として有名ですが
意外と良い雰囲気が残っていました。

IMG_6105.JPG

地名の由来は「春日神社」からきているようです。
それで奈良という地名なんですね。

IMG_6104.JPG

集落からは立派な参道が伸びていたのですが
府道によって分断されてしまっています。

IMG_6115.JPG

IMG_6120.JPG

住宅地の中を進んでいきます。

カーブする道筋に丸ポスト。
ふと路肩を見ると木製電柱の残骸。

何気ない景色の道も
じっくり歩いていくと色々発見がありますね。

IMG_6118.JPG

IMG_6140.JPG

茨木城下に入ってきました。

さすがは元は城下町だけあって
道は入り組んでいてどれが昔からの道か悩むところですが
こういう時は古地図に頼ってみるのが一番です。

Googleで画像検索してみてください。
「茨木城 古地図」うじゃうじゃと出てくると思います。

IMG_6139.JPG

茨木城は江戸時代の早い段階で廃城になっているので
今ある町並みは元は城下町だったとしても
交通の要衝としての発展が大きかったのではと思います。

IMG_6146.JPG

IMG_6155.JPG

民家の壁に埋もれてしまった道標を見ると

「右 京、八幡、三島江、唐崎、富田、高槻」
「左 妙見山、亀山、中山勝尾寺」

IMG_6157.JPG

かなりいろんな場所へ行けることがわかります。
三島江や唐崎は淀川の舟運の集積地で
亀山は今の亀岡にあたります。

IMG_6165.JPG

IMG_6168.JPG

町工場や団地を抜けると富田の集落に入ります。

明治期の地図を見る限り、
規模は茨木、高槻と肩を並べる程だったようです。

また、水が美味しく北摂三銘酒の地としても有名で
あの芭蕉も富田の酒を大層気に入ったという話があります。

IMG_6171.JPG

IMG_6202.JPG

IMG_6215.JPG

富田からは道標の数が一気に増えてきます。
まるで角を曲がるごとにあるような感覚です。
これはもう道標好きにとってはたまんないですよね。

IMG_6210.JPG

IMG_6218.JPG

なぜ、ここまで多くの道標が現存しているのか?
道路の拡張がされていない古い道筋であるのも一つの理由ですが
熱心に道標を立てた人物(財力がある人)が富田にいたことも
大きな理由にあげられるのではないかと思います。

IMG_6221.JPG

IMG_6228.JPG

富田の集落の中心には普門寺があります。

かつては寺の横には大きな池があったそうです。
昔の写真を見るとなんとも風情がある光景だったのですが
現在は一部を除いて埋め立てられてしまっています。

IMG_6229.JPG

その池の向かいの街道筋には
かなり大きな屋敷(紅屋屋敷)があったそうです。
もしかすると道標を立てた人物かもしれません。

IMG_6236.JPG

富田の集落の出口には北門がありました。
道路の溝を見ると古い石積みを見ることができます。

IMG_6241.JPG

集落を出るとなだらかな坂を下っていきますが
富田は少し高台の場所にあることが実によくわかる光景です。

IMG_6243.JPG

IMG_6246.JPG

IMG_6266.JPG

芥川を渡ります。
高槻城下はもうすぐです。

西国街道の芥川宿はこの川の上流にあたり
高槻城下からは北西の方角に位置しています。

IMG_6275.JPG

古地図を見ると
芥川宿と高槻城下は全く別の町を形成しています。

他の街道でも言えることなのですが
あえて城下の中心には街道を通さないことがありました。
防衛などのため城から離れた場所をわざわざ通していたわけです。

でもここまで離れてるのは
ちょっと珍しいかもしれませんね。
幹線の西国街道ですし警戒感が強かったのでしょうか?

IMG_6293.JPG

高槻城跡。
高山右近の銅像がありました。

近くにある資料館”しろあと歴史館”は
西国街道の展示もあって充実していました。

IMG_6291.JPG

IMG_6299.JPG

江戸時代の城下は水路が張り巡らされてたようです。
今も水路は古地図と同じ位置にあります。

角にあった道標には
「右、京 山崎 淀 柳谷 ふしみ 宇治 八幡」
「左、大坂 冨田茨木 十方 尼ケ崎 惣持寺」

あらゆる地名が網羅されています。

IMG_6316.JPG

IMG_6301.JPG

IMG_6317.JPG

城下を出ると西国街道の追分までは
八丁松原という松原が続いていました。

八丁なので約900m。
今もところどころに老松が残っていて
当時の景色を想像させてくれます。

IMG_6328.JPG

IMG_6333.JPG

西国街道との追分。

今回の高槻街道は地方街道なので
歩くまではあまり期待をしてなかったのですが
道中には城下町が2ヶ所あり銘酒の富田の集落があり、
道標も充実していて想像以上に良い街道でした。


  
posted by にゃおすけ at 20:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 大阪近辺の街道 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック