矢掛の本陣を見学したく暗いうちに出立しました。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
岡山城下の宿場機能は
下之町、上之町付近が担っていました。
今もこの付近は大きな商店街になっていて
かつての賑わいを感じることが出来ます。
ただ、古い家は皆無に等しく、
戦災の影響で残っていないようです。
柳川交差点。
この辺りの道路はとてつもなく広いのが特長的です。
戦後、道路の拡幅とロータリーの建設が行われています。
江戸時代においてもこの道筋は重要だったようで
古地図を見ると堀があり小橋が架かり枡形があったそうです。
町がようやく目覚めてきました。
新幹線の高架をくぐっても
別の商店街がまだまだ続いています。
こちらは奉還町商店街。
明治になって武士は失職した際の退職金を奉還金と呼ぶのですが
奉還金を元手に武士が商売を始めたという歴史のある商店街です。
水路がある街道風情。
石積みに古さを感じますね。
この辺りからは古い家をちらほら見かけることができます。
空襲の影響は山沿いなので少なかったのでしょう。
やがて街道はちょっとした高台へ。
矢坂宿と呼ばれる間の宿に差し掛かります。
この写真のあたりは本陣跡と呼ばれていますが
おそらく茶屋(本陣)の意味かと思います。
郊外の風景になってきました。
左には吉備津彦神社があるのですが
以前寄ったことがあるのでスルーしています。
今回の区間ではこのように史跡が豊富です。
もしかすると西国街道一番の見どころ多い区間と思うので
余裕があれば2回に分けて歩いたほうが良いかもしれませんね。
この辺りは左にカーブをしてますが
右方向からの細い道と合流します。
この道こそが藤井宿付近で分岐した古代山陽道です。
この先で備前、備中の境界碑(元禄年間)を見て
真金一里塚にたどりついます。
上の木は後年のものになるのですが
盛り土に往年の面影を感じることができました。
吉備津神社への参道と分けます。
立派な松並木が西国街道の鳥居から出ています。
この吉備津神社近くの宿場町が板倉宿です。
江戸時代の後期は歓楽街としても賑わっていたそうで、
なまこ壁の立派な家があるなど面影を感じます。
この昭和60年に復元された道標には
松山(備中)や陣屋のあった庭瀬などの文字を確認できます。
板倉宿は交通のジャンクションだったことがわかります。
備中高松城攻めで有名な足守川を渡ります。
この周辺は田畑が広くなんとも気持ちの良い眺めです。
川の堤防横には明治天皇野立場跡があるのですが
明治43年にあった軍事訓練の観閲時によるもので
さぞ見渡しが良かったものと思います。
国分寺の五重塔が見えてきました。
ここからしばらくは右手に眺めながら進んでいきます。
この付近の風情ある旧道。
造り酒屋があり試飲が出来るみたいです。
土壁が実にいいですね。
「金」と書かれた立派な金毘羅さん常夜灯もありました。
やがて高梁川の堤防へ。
現在は橋で渡るしかないのですが
かつては舟で渡っていました。
対岸の川辺宿側には渡し場跡が残っています。
川には高瀬舟の往来もあり相当な賑わいがあったそうです。
川辺宿。
今回のゴールは有名な矢掛宿ですが
川辺宿は川止め対策の宿場町でもあったので
矢掛宿を上回る重要な拠点だったといいます。
現在は国道のバイパスが出来ているので
宿場の風情はひっそり。なんとも静かなものです。
秋は祭りの季節。
立派なのぼりが立ってました。
ここからはひたすら西へと進んでいきます。
途中なにもないところで街道は屈折します。
大曲です。
なぜこれほどまでに曲がってるかというと
条里制に関係しているという話です。
この付近は吉備真備の史跡を多く見かけます。
街道を歩いていると歴史を感じることがありますが
それは江戸時代から近世にかけてのものが多いです。
ところが今回の区間に関しては
江戸時代以前の歴史を感じる箇所が多いもので
先ほどの国分寺にしろ数多くの古いものが残っています。
それだけ山陽道は古くからの重要道だったということでしょう。
黄金に輝く稲。
西日が強くなってきました。
家族総出の光景をあちこちで見かけました。
左手の山は猿掛城跡です。
街道は山と山の間の空間を抜けていきます。
国道と離れ旧道に入ります。
三谷駅付近ではしばらく高台の道を進みます。
おそらくは川の氾濫対策だったのでしょう。
かなり高い位置まで上ったので国道が真下に見えました。
やがて矢掛宿に到着です。
ここは本陣と脇本陣の建物が残る街道唯一の宿場です。
脇本陣の見学は15:00までなのですが
本陣は17:00まで見ることができます。
希望すれば係員から説明を受けることができます。
次回は広島県へと進めていきます。
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お願いごとが叶うと護摩木を焚いている護摩の釜がなるという体験をしました。
岡山には姪がいますが、まだまだ知らない処ばかりで
懐かしくかんじました。
あの辺りは古き良きものが残ってますよね。
西国街道を歩いていても上位の区間だと思います。
また訪れてみたいものです。
こんにちは。
先日、岡山から備中呉妹まで歩いてきました。
途中で吉備津神社に立ち寄り、「昔の」様が書かれている鳴釜神事を体験してきました。
釜の音が鳴る時にはとても不思議な感じでした。
通常の祈祷は30人くらいで受けたのに鳴釜神事に行ったのは私一人でした。
地元の人は鳴釜神事を何回も体験したことがあるから祈祷の都度受けないのか、
それとも地元の人でも知らないのかどっちなんだろう、なんて考えていました。
「昔の」様、貴重な情報ありがとうございました。
この区間は見所が本当にいっぱいですね。
次の区間も楽しみです。
ではでは。
街道歩きおつかれさまです!
この区間はほんとに見どころが多いですね。
鳴釜神事などのイベントも体験するとなると
今思うと2回に分けて歩いても良かったなと思いました。
今度は観光でいずれ再訪したいところです。
先日、備中呉妹から御領まで歩いたのですが、
この区間で変わっていたところは写真100から102までの山際を歩く箇所についてです。
山の斜面の改良工事が行われていて斜面がコンクリで補強されています。
にゃおすけさんの写真では歩道が細かったように感じましたが補強工事に伴い歩道がかなり拡張されていてました。
風情はなくなりましたが、とても歩きやすいです。
情報ありがとうございます。
先日の大雨でこの付近は甚大なな被害が出てしまいましたね。
にゃおすけさんは以下のように書いています。
「三谷駅付近ではしばらく高台の道を進みます。
おそらくは川の氾濫対策だったのでしょう。
かなり高い位置まで上ったので国道が真下に見えました。」
私はこの付近を歩いた時にこんなにのどかな河なのに、
こんなに高台まで登らなくてもええやん!って心の中でつぶやいていましたが、
本当に氾濫って起こるんですね。
少し下流の猿掛山の麓部分が狭隘部なので昔はここでよく氾濫が起こったということなのでしょうね。
街道って本当に合理的に作られていると改めて再認識しました。
この地域の1日も早い復旧を心より祈っております。
昔からの街道のルートは何か意味があるものだと痛感します。
さらに遡ると瀬戸内の交通は街道よりも舟がメインだったことからも
陸に大きな道が整備されにくい何かがあったのかもしれませんね。