東海道の宮宿より中山道垂井宿を目指します。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
日本三大土塀の一つ”信長塀”
この日の暑さは強烈でした。
熱田神宮の森からはセミの声が鳴り響いていました。
東海道との追分にある立派な道標には
あらゆる地名が書かれてあります。
「北 さやつしま みのち 道」
「東 江戸かいどう」、「北 なこやきそ道」
「南 京 いせ 七里の渡し」
美濃路は古い時代からある街道で
江戸期には将軍の上洛や朝鮮通信使なども通行したりと、
五街道に次ぐ重要路として整備されてきました。
今も随所に一里塚や面影を感じることが出来ます。
沿道には案内看板や休憩所が設置されいたりと
東海道の延長として歩く人が多くなってるといいます。
熱田神宮を過ぎると国道を進んでいきます。
名古屋の道路は幅が広いのが特長的です。
かつての道筋はこの道路のどこを通っていたか
今や古地図で見比べるしか方法がありません。
道幅が広いのは防火防災の意味もあるのだそうで
戦後復興の都市計画がキッチリしていた成果といえます。
佐屋街道は左へ。金山にて。
大須の商店街付近では旧道を進んでいきます。
大須は若者が多く活気があります。
商店街の手前の仏壇街とは対称的な雰囲気です。
街道は最初の宿場町。名古屋宿へ。
現在はビジネス街といった様相です。
名古屋城にほど近い場所になるのですが
かつては城下町の中でも町人街だったようです。
今回歩くにあたっては名古屋の街道を網羅している
Network2010.orgというサイトを参考にさせてもらっています。
公開している図は名所が網羅されてて素晴らしいものです。
一部ルートで疑問に思うところがあったりするものの、
見ながら歩くとまるで江戸時代を歩いてる気分にさせてくれます。
たとえば、写真の白川公園。
昔は寺がずらーと並んでいたそうです。
現在は寺の面影が皆無に等しいのですが
空襲の影響で古い建物はほとんど残ってない地域だからこそ
このような古絵図で現地で比較できるのはいいものです。

白川公園の古絵図(Network2010.orgより)
堀川に架かる伝馬橋を渡ります。
この橋は織田信長の清須城から名古屋城へ
城下町を丸ごと引っ越しした時に架けられた代表的な橋です。
現在の橋は大正9年製。
この付近は市中にも関わらず驚くほど静かです。
旧家が何軒か残っていて良い雰囲気でした。
名古屋城を右手に見て
美濃路は西へと90度進路を変えて
一本道で次の枇杷島集落へと進んでいきます。
枇杷島の由来は清音寺から
庄内川を渡ります。
名古屋城の大外堀にもなっていた川ですが
ここには枇杷島橋という大きな橋が架かっていました。
かつては川の中ほどに島(中州)があったので
島を境にして「小橋」、「大橋」と分かれてたそうです。
しかも、巨大な木造二連の太鼓橋!
旅人は名古屋を目の前にして
凄いもの見せつけられた!と驚いたことでしょう。
枇杷島の古い町並み。
古い雰囲気が残っています。
ただしこの付近は濃尾地震の影響が大きかったようで
建物は明治期以降のものが大多数になっています。
入場無料の問屋記念館
枇杷島では川を利用して商いが活発でした。
それは江戸の千住、大坂の天満と並ぶ三大市場に数えられるほどで
問屋記念館ではかつての賑わいを知ることができました。
名鉄の駅の名前にもある「新川橋」
橋のたもとには美濃路ポケットパークがありました。
道標に刻まれた「つしま」の文字。
津島とは古くからある「津島神社」の門前町のことで
美濃路では津島へ向かう道をいくつも見ることができます。
次の宿場は清須宿。
当時の城は五条橋から見える公園付近にあったそうです。
模擬天守の資料館とは違う位置にあたります。
ちょうど木が茂ってるあたりが清須城跡
かつては清洲城の城下町で大い賑わった町は
「清須越し」によって一時はかなり寂れてしまったそうです。
その後、美濃路として街道筋が整備されることになると
今度は宿場町として再び息を吹き返したという経緯があります。
本陣の門は今も健在。
濃尾地震にも耐えた立派な門でした。
清須宿を過ぎると郊外の様相が出てきます。
かつて岐阜道との追分にあったという道標には
「左 京都道」としっかりと刻まれています。
建てられた年代を見ると文政年間のもので
江戸時代に京都の表記は珍しいですよね。
国府宮の一の鳥居。
ここから約1km北側の宮へと参道が伸びています。
やがて今回のゴールである稲葉宿へ。
稲沢市なのになぜ稲葉?と思ったのですが
稲葉村と小沢村の一字をとって合併したそうです。
この日は国府宮駅前で宿をとりました。
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