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昼から雨の予報だったので
朝の5時半には稲葉宿を出立しました。
さすがに早朝なので人の気配がありません。
写真も撮り放題。早起きは三文の徳とはよく言ったものです。
宿場内で見かける案内看板には
ルートとともに見どころが紹介されています。
問屋場の跡や本陣の跡など
一見通り過ぎてしまいそうな場所でも
看板があればついつい立ち止まってしまいます。
一宮市に入ると水田が増えてきました。
遠くには養老の山々も近づいてきました。
ここまで美濃路を歩いてきて
山が1つも見えない光景が続いていたわけですが
それだけに濃尾平野の広さを実感できた思いがします。
萩原宿は舟木一夫の生誕地。
少し古ぼけた案内看板は
まるで歴史上の古い人物かのようです。
字体もいい味を出していますよね。
宿場は中ほどでL字状に曲がっています。
かつて戦国時代には萩原城があり
江戸初期には尾張藩の御茶屋御殿があったそうです。
現在の荻原宿の原型は
城を中心とした城下町ということになりますが
遺構としては残念ながら残っていないようです。
モダンな建物が残るメインストリートには
綺麗な飾りづけがされていて印象的な光景です。
古くは遊郭があったといいます。
富田の一里塚。
両塚がきっちり残っています。
京に向かって左側の塚を
一般的に「左塚」と呼ぶそうです。
道路と比較してもこの通り。
いかに大きいかがわかると思います。
起(おこし)宿。
木曽川を前にした宿場町で
3本の渡し場が存在していました。
上流から
定渡船場、宮河戸、舟橋河岸。
舟橋河岸には将軍が通行する予定の前後は
一時的に橋を架けられていたそうです。
これらの資料は
尾西市歴史民俗資料館でみることができます。
展示内容は宿場の様子の紹介が大部分で
江戸に向かった象の渡しの様子の展示もありました。
資料館の建物は雰囲気ある建物です。
中にある庭園も実に立派なものでした。
敷地的には脇本陣跡のところに建ってるのですが
元の建物は濃尾地震の際に倒壊してしまってるので
今の建物は大正期に建てられています。
かつての渡し場のひとつ
そういえば、なぜ起宿という名前なのか。
この地域で木曽川のことを「起川」と言っていたので
おそらくそこからきているのではと思います。
ちなみに美濃路にある他の大きな川にも
今の時代とは別の名前がついていました。
起川(木曽川)
小熊川(境川)
墨俣川(長良川)
佐渡川(揖斐川)
木曽川を渡ります。
対岸にも船着場があるのですが
大正期に堤防工事、土地改良があった影響で
起宿側と比べ遺構が少なくなっているようです。
堤防上にあった常夜灯は移転されたもので
船着場自体は金毘羅神社にありました。
鬱蒼とした森の中といった雰囲気です。
ちなみに将軍が利用した舟橋からの道はこんな感じ。
舟橋跡はここより1kmほど下った場所になります。
雨が強くなってきました。
水田の稲の香りや道の土の匂いなど
雨ならではの香りを楽しめました。
やがて今回のゴールの須賀駅。
本当は一気に垂井宿まで行く予定をしていたのですが
40キロ越えの道のりなので暑い時期は無理はできません。
逆に雨のおかげで道中をゆっくり楽しむことができました。
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