ラストは見どころ多い道中となりました。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
須賀駅周辺の足近集落は間の宿でした。
雰囲気ある家並みが広がります。
本陣は加藤家が担当していたようで
立派な門と広大な敷地に面影がありました。
上の写真の橋は「及が橋」といいます。
江戸期以前は少し上流の鎌倉街道の橋だったのですが
美濃路が整備されると上流から流れてきたといいます。
ほんとかどうかは謎ですが
こういう昔話は想像が膨らみますね。
集落を過ぎると街道は一部消滅しています。
いわゆる土地区画整理事業というもので
街道の痕跡を見つけるのは困難な状態です。
そんな中、阿遅加神社の看板がありました。
看板から少し入った場所に灯篭があるのですが
この灯篭の手前を街道が通っていたと思われます。
その証拠にこの古地図を見ると一目瞭然ですね。
このように神社や寺など重要な施設の敷地は
土地区画整備事業程度では移動せずに
昔のままというのが多い気がします。
境川の堤防上を進んでいきます。
もう一週早ければ見頃だったであろう桜並木が続きます。
境川は元は「小熊川」とも呼ばれて
さらに古い時代は「尾張川」と呼ばれていました。
この川は美濃と尾張の国境になるほどの大河だったのですが、
後に川の流れが変わり国境は木曽川へと移っていきます。
おそらく、境川の境とは
かつての国境の意味なのかもしれませんね。
雪が残る伊吹山が遠くに見えてきました。
西に進むにつれどんどん近づいていきます。
境川を渡ります。
当時の川幅もそれほど広くなく舟で渡っていたそうです。
ただし大名や使節が通る際は舟橋が架けられたといいます。
境川と平行する細い川には土橋が架けられていました。
現在の橋より少し下流側に架かっていたそうで、
土橋から続いていたと思われる旧道の痕跡が残っていました。
旧道の痕跡
今回の道中では
このような古地図付きの案内板が多くて助かりました。
案内看板はあるだけでもうれしいものなのですが
古地図があると今と過去の比較が出来るので有難いですね。
長良川を渡ります。
墨俣の渡しと呼ばれた渡し場は橋の少し上流にあったそうです。
周辺は河川敷になっていて何もないですが
なんとなく渡し場だった面影を感じることができます。
対岸の集落は一夜城で有名な墨俣宿です。
長良川と宿場入口との間には水路がありますが
水路は後年のもので墨俣側の渡し場は堤防付近にあったようです。
水路を作ったことで墨俣宿の一部集落が失われてしまいますが
それでも新しい常夜灯から先の町並みは良いものが残っていました。
ただし、古く見えるものでも明治以降の建物。
美濃路沿いの各集落は濃尾地震の被害が大きかったので
江戸時代のものはほとんど残っていないのは寂しいところです。
元脇本陣の建物も明治期のものですが
立て直す際は昔の建物に似せて作ったといいます。
家々の軒先には墨俣宿の行灯が置かれています。
夜は夜で風情ある光景があるでしょうね。
ここは桜の名所でもあるので
多くの花見客の姿を見ることができました。
犀川の旧堤防上を進んでいきます。
なぜ堤防上を通っているのか。
治水の歴史を調べると面白いものが発見できそうです。
おそらく長良川と揖斐川の挟まれた土地であることから
洪水の度に地盤が脆くなっていたと想像できるのですが
物流ルートとして地盤の安定が求められる街道は
堤防上に築かれたということなのでしょう。
一段高い場所からの眺めは良いものですね。
堤防道は揖斐川を渡る手前まで続きます。
揖斐川手前の集落は「町屋」
古い時代から船などの待合の場所とされていて
待合から町屋という名前に変わっていったそうです。
町屋集落の西半分は明治の河川改修によって
揖斐川の河川敷に消滅しています。
そこに立っていた町屋の氏神様「結神社」も
今の位置への移転を余儀なくされています。
現在の結神社
揖斐川大橋を渡ると大垣です。
かつて揖斐川は佐渡川という名前で、
渡しの名も「佐渡の渡し」と呼ばれてました。
大垣側の渡し場跡には立派な常夜灯が残っていました。
将軍や使節通行時は舟橋が架けられたそうで、
川幅から想像するにかなりの規模だったことがわかります。
大垣市内に入ると旧街道は城下ということもあって
枡形などの屈曲した箇所が多くなっていくのですが、
現在は大部分が改良され面影が少なくなってきています。
大垣城下の中心部に入ります。
戦災の影響で古い建物はあまり残っていませんが
街道筋の舗装は色が変えられ案内板も多く、
大垣市の美濃路に対する力の入れようが感じれました。
大垣東総門(名古屋口)付近の本来の道筋は
大垣市のガイドマップの道筋より一つ手前で左折しています。
左折後は川の手前ですぐに右折するのですが
そこに架かっていた古い橋が今も残ってるの確認出来ます。
古い橋の跡
人通りが少なく静かな通りです。
問屋場跡を過ぎると本陣跡が目の前に現れます。
この立派な建物は無料で見学することができます。
係員も常駐していて嬉しいものです。
大垣といえば水の都とも呼ばれていて
中山道赤坂宿や伊勢湾への航路の港でもありました。
船町とよばれる港周辺には
立派な常夜灯や道標などが残り、
なんともいえない萌えな光景が広がります。
また、ここは松尾芭蕉の奥の細道の終点でもあって
この日も多くの観光客で賑わっていました。
こちらは航路の常夜灯です。
明治のものですが代々同じ形で作ってきたそうです。
このタイプはこの先の杭瀬川公園でも見ることが出来ます。
この船町のあたりが城下に西の端。
大垣城西惣門(京口)にあたります。
城下を離れ西へ。
片側だけ残った立派な一里塚がありました。
久徳の一里塚で檜が植わっていてほぼ原形に近いものです。
この先、旧道が失われたり復活したりと繰り返して進みます。
遠くに見えていた伊吹山がどんどん近くなってきました。
春は残雪があってなかなかの風情があります。
関ヶ原の谷間の地形といい絶景です。
松並木が出てきました。
かなりの距離に渡って続いています。
なんとも嬉しい癒しの空間です。
やがて中山道との追分。
立派な追分道標がありました。
右手から中山道が合流します
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