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早朝の小山宿。
この付近は中心部なので本来は交通量が多いのですが
さすがにまだ町は寝ている様子でした。
踏切に奥州街道の名前
喜沢追分で分岐します。
日光西街道は宇都宮経由の日光街道よりも
2里(約8キロ)も短い上に混雑を避ける意味合いで
庶民の日光社参によく利用されていたそうです。
追分に立つ石仏群
特に徳川家康の命日月である4月は
日光街道の混雑は凄かったみたいですね。
名残りの松並木。
数本しか残ってませんが実に立派でした。
この付近から起伏に富んだ道が増えてきます。
周りの景色も田畑ばかりになってきました。
森の中に一里塚
飯塚宿はその名のとおり塚が多いところです。
周辺には古墳が多く残っていて
下野国分寺跡もあり古くから発展していたようです。
下野国分寺跡
両側に残る”飯塚の一里塚”
比較的小さいサイズですが状態は良いようです。
歩道は塚をわざわざ迂回して作られていてナイスでした。
杉並木が現れました。
この辺りの古地図を見ると
昔はずらーと並んでいたことがわかります。
数本のみとはいえ樹齢を重ねた杉の威容は
素晴らしいものがありますね。
枯れかかった杉の木も
御成橋を渡ると壬生の城下はすぐ近く。
”御成”とは将軍も通った名残なわけですが
日光への行きは正式ルートの日光街道経由でも
帰りは日光西街道を経由することもあったそうです。
その際の宿泊は日光街道の宇都宮城に対し、
日光西街道では壬生城に泊まっていました。
壬生の一里塚。
城下の出入り口に位置しています。
将軍社参のおりは
壬生の殿様はここまで見送りに来たそうです。
壬生城下の風情。
電線も地中化されて良い雰囲気です。
何やら蘭学で有名な人が何人もいたそうで
メインストリート名が蘭学通りと名づけられてました。
壬生城跡
花が咲く街道風情。
かつてはここにも杉並木があったようですが
その跡地を利用して花壇が作られています。
団子屋でいっぷく。
街道の話で花が咲きました。
帰り際に柏餅を2個もいただき有難いものです。
金売り吉次の墓。
何やら平安時代末期の商人のようで
平家物語や義経記にも登場する伝説の人らしいです。
大谷石を使った家々が増えてきました。
壬生宿から楡木宿まで宿場はないですが
古い集落が街道沿いに点々と存在しています。
またも一里塚。
脇道であった日光西街道では
日光街道と比べて都市化が避けられ影響があるのでしょう。
車社会になっても道幅をそれほど広げることなく、
立派な一里塚を今もあちこちで見かけることができます。
これは杉並木にも言えることで
楡木宿に近づくにつれ立派な並木が残っていました。
車と比較してみると面白いですね。
まるで車がおもちゃのように小さく見えてきます。
立派な前方後円墳
これも一里塚
木が伐採されてるのも多々ありました
杉の木が生えている部分は
盛り土になっていて昔ながらの光景です。
左からは例幣使街道
やがて例幣使街道と合流して楡木宿へ。
次回は日光の手前にある今市宿を目指します。
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