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楡木宿の読み方は「にれぎ」で
宿場内に楡の大きな木があったのが由来です。
小山から続いてきた日光西街道ですが
楡木から先は日光例幣使街道と重複しています。
現代はこの先も例幣使街道として扱うことが多いですが
一里塚は江戸を起点として数えられていますし、
五海道其外延絵図日光道壬生通が発行されてるので
日光西街道(壬生道)と考えるのが妥当かなと思います。
ただ、江戸時代の街道名はあってないようなものですから
この辺りは深く考えないほうがいいかもしれませんね。
奈佐原宿。
一見、何もないような町に見えるのですが
国の無形民俗文化財が2つもある凄いところです。
その一つが人形浄瑠璃で
今も春と秋の祭りで公開することがあるそうです。
遠くに日光連山が見えてきました。
街道のところどころに杉並木の名残りが出てきました。
日光が近いことを実感させてくれます。
続いての鹿沼宿は彫刻屋台で有名です。
町のあちこちで屋台蔵を見かけることができました。
鹿沼宿の入口は鳥居跡(とりいど)の交差点です。
この変わった地名は、鎌倉時代において、
日光連山を遥拝する巨大な鳥居から由来しています。
鳥居跡で内町通りと田町通りの2つの道筋に分かれますが
宿場町形成時に整備されたのは内町通りのほうで、
田町通りは江戸期以前の古日光街道にあたります。
追分にある二荒山神社
資料によって継立を月に20日は内町通りが担当し、
残り10日を田町通りを担当したという話もありますが、
このように宿場で2つの道筋があるのは珍しいですね。

画像提供:東京国立博物館
ここで絵図を見てみましょう。
上の細い道が古日光街道の田町通りです。
下の大きな道が日光街道の内町通りにあたります。
このように絵図を見ていると
宿場町風情が手に取るようにわかりますね。
一つ面白い点としては、
鳥居跡の交差点を越えた先まで杉並木が続いています。
しかも分岐点には何もない感じです。
一般の旅人が多かった壬生道において
道に不慣れな人が多かったものと思います。
それゆえ、家並みや杉並木に沿って歩いたと考えらますから
迷わないよう杉並木で誘導していたのかもしれませんね。
鹿沼宿は戦国時代は鹿沼城の城下町でもあったので
寺が集中してる地区があったりと城下町風情を感じます。
鹿沼市役所の裏が「鹿沼城址にあたります。
この辺りは電線が地中化されてて空がスッキリ。
なんとも気持ちの良いものです。
御成橋を渡ります。
橋には可愛いモニュメントが埋め込まれていました。
橋を渡った先の高台には不動堂があり、
日光連山や鹿沼宿を一望することができます。
江戸期においてはここで旅の安全を祈願したのだとか。
杉並木が始まりました。
杉の外側には遊歩道が整備されていて
とても心地よく歩くことができます。
ふと、中から杉の外を見てみると
昔ながらの長閑な光景が広がっていました。
日光市との境には杉並木寄進碑が立っています。
日光の杉並木は日光東照宮創建と同時に植えたのが始まりで
今や世界最長の並木道としてギネスに載るほどになっています。
その由緒が刻まれているのが寄進碑で
慶安年間に各街道の入口と神橋に建てられています。
鹿沼市から続いてきた杉並木は
日光市に入るとさらに凄みを増してきました。
管理状態が良いのでしょう。どれも大木です。
こちらは一里塚の跡。
杉並木の外側にこじんまりした塚が残っていました。
杉の大木に比べると小さく埋もれる感じですが
江戸時代においての杉はそれほど樹齢がないので
ちょうど良い感じに街道から見えていたのかもしれませんね。
杉並木が途切れると文挾宿。
この宿場名も難読で「ふばさみ」と読みます。
宿場は延命地蔵尊のあたりからですが
その手前には立派な追分道標がありました。
左 大谷、右 鹿沼。
宇都宮方面の道筋なのでしょう。
鹿沼方面とは今通ってきた道ですが
江戸の文字や倉賀野の文字は見当たりません。
文挟宿の北の端は枡形のように折れ曲がっています。
そこに立っているのが村の倉庫。
これはただの倉庫ではありません。
江戸期は飢饉が多くありましたが
それに備えて設置されたものだそうです。
宿場から外れると再び杉並木が始まります。
途中にまた一里塚の跡があり
こちらも杉並木の外側に設置されています。
それにしても杉の中を歩くのは気持ちがいいものです。
花粉症の人は大変かもしれませんが
雨が降ってると杉の香りが際立つかなと思いました。
板橋宿。
ここも宿場内は杉並木が途切れています。
業務をする上で並木は邪魔だったのでしょう。
途切れてる様子は絵図にもしっかり描かれています。

画像提供:東京国立博物館
板橋宿の北の端で枡形のようになっていて
それを過ぎると再び杉並木が始まります。
ここからはバイパス道が出来たおかげで
車がほとんど通らない道筋になっていました。
たまに通る車と比較してみると
杉並木の大きさを実感できると思います。
地震坂は戦後すぐにあった地震によって
松並木が断層で一部移動してしまった場所です。
本来の道筋は看板のあった後方になるそうで
振り返って見るとどれだけ移動したかがわかります。
元の杉並木は道から大きくずれている
元の杉並木と道路との境目
杉の木が動くって相当なものでしょうが
倒れなかったあたり杉って凄いですね。
今市宿が近くなってきました。
ところどころに民家が増えてきました。
途中にあった千本木集落。
絵図にも書かれている地名です。
日光街道の追分。
追分地蔵があります。
左 宇つのみや 右 かぬま
道標にもどこか風格があります。
今市宿は名水があることで有名です。
いまいちの水で乾杯して完歩としました。
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