南海電車沿いに和歌山城へと進んでいきます。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
スタート地点は紀州街道との追分。
立派な道標が立っています。
「左 紀州わか山」「右 大川あはしま」
大阪と和歌山との県境には
いくつも峠が存在しているのですが
大きく分けて紀州街道(熊野街道)の雄ノ山峠と
今回の孝子峠が一般的に使われていたようです。
参勤交代にも使われた雄ノ山峠は
最短距離で結ぶのですが山間部は険しいのが難点で
対して孝子峠は距離は長いものの比較的楽なのが利点でした。
9月はだんじり祭りの準備で大忙し
先ほどの道標に
「大川あはしま」と書かれていますが
「大川」は大川寺のことを指して
「あはしま」は加太の淡嶋神社のことを指しています。
また加太は淡路島、四国への港でもあったので
孝子越街道は単に紀州への目的の人だけでなく
これら参詣や渡航目的の人も多く往来していたようです。
泉佐野の街道沿いにあった
古さを感じさせる天幕式のアーケード。
まだ早朝だからかひっそりした商店街でした。
りんくうの高層ビルとは対称的な
レトロな雰囲気が広がっています。
田尻町に入ると海が見えてきました。
孝子越街道はルート的には海沿いを進むのですが
意外と海を眺める区間がないので実は貴重な光景です。
その代わり少し山側に入った場所を通るので
アップダウンが多いのが特長的です。
海沿いを進めば楽なはずなのですが
もしかすると他の街道の例にもあるように
海の災害を避けてのルート選定だったのかもしれません。
今回の孝子越街道、紀州街道を含めて
大阪湾沿いを進む街道の歴史をひもいていくと
意外と歴史が浅いことがわかります。
江戸時代以前は内陸の熊野街道がメインでした。
一方、海沿いは住吉大社までは古くから往来があったものの
それより南は集落を結ぶだけの道といった感じだったようです。
歴史が浅い理由はずばり海。
舟との競争があったからと言われています。
時が変わって江戸時代に入ると
参勤交代制度が始まり紀州街道が整備されていきます。
孝子越街道の原型も同じ頃に形成されたのではと思います。
尾崎には立派な道標がありました。
「左、紀州 いせきごえ」「すぐ、大川 かだ」
天保年間に作られたもので、
左は井関越道を経由して紀州へと通じています。
対して下の孝子越街道の石碑は明治のもの。
孝子越街道の名称は明治に付けられています。
尾崎港。
海沿いの集落といった雰囲気です。
秋も9月の下旬になって
彼岸花をあちこちで見かけることが出来ました。
国道26号に合流するあたりでは
大阪湾を丘陵から眺めれるようになります。
この付近からみさき公園の駅付近までは
旧道と国道が交差を何度も繰り返していきます。
みさき公園駅を過ぎて深日の町へ。
ここは古くからの港町でした。
町の中心部には千歳橋が架かっていて
橋を渡った場所で大川峠道と分かれています。
左が孝子越え、右が大川峠越え
この付近は地図で見てみると
現代の国道より海側に大きく迂回してるのがわかります。
今の感覚からすれば迂回しなくても。となるのですが
当時の橋は千歳橋しか架かってなかったことに加え、
大川寺、加太方面に行く人が多かったことを考えると
ごくごく自然な道筋だったように思えてきます。
橋の先には時代を感じさせる
古いコンクリート舗装が残っていました。
さぁ、孝子峠に向かいましょう。
峠の手前には孝子の集落があります。
下孝子、中孝子、上孝子と3つに分かれています。
孝子越えの峠は中孝子から分かれていて
上孝子には有名な孝子観音というお寺があります。
ここで峠についての疑問点が。
江戸中期の古地図を見てみると
どこを探しても孝子峠が載っていないのです。
あるのは上孝子にある平井峠ばかり。
もしかすると孝子地域にある峠として
平井峠が孝子峠と呼ばれていたのかもしれませんが
いくら調べても裏付ける資料がありません。
少なくとも孝子観音にお参りした人は
平井峠を経由して紀州入りしていたとは思います。
現代の孝子峠。
道路が開通したおりに
大きく掘り下げられてしまったようです。
この付近には歩道がなく
峠自体は楽なのですが車には神経を使いました。
和歌山県側に入ります。
和歌山大学前駅付近は
近年の大規模開発によって地形が大きく変わりました。
そんな中でもかつての旧道が一部残っています。
この草道。なかなかのものでしょう。
ちなみに右側に見える大きな池は
元々はもう少し上の場所にあったそうですが
南海電車を建設する際に今の位置になったようです。
梅原の交差点。
ここを左斜め方向へと曲がっていきます。
右側からは加太方面からの淡路街道と合流します。
この辺りになると住宅街といった風情です。
和歌山市内の孝子越街道の道筋は
いろいろと説があって大いに悩まされたのですが
今回は歴史の道調査報告書を参考にしています。
次郎丸バス停付近に残る旧道。
草道が良い感じに残っています。
変電所の裏を通っていくと北島交差点です。
紀ノ川を渡る北島の渡し場へと道筋。
この狭い通路のような場所が旧道のようです。
左の用水路脇には古い石積みがずらーと残っていたり
所々で道幅が広くなっている場所があったりするので
かつては街道らしい道幅があったのかもしれません。
北島の渡し跡。
神社が近くにあります。
この場所は和歌山市内からの
淡嶋神社、四国への淡嶋街道の追分でもあります。
紀ノ川を渡って和歌山市街地へ。
大きな堀沿いに進んでいくと
和歌山城の京橋に辿りつきます。
それにしても今回の行程なのですが
計画では17:40までかかる予定だったところを
結局は15:40と2時間も早くの到着でした。
これは、涼しくなってきたからと
道中はそれほど迷うところがなかったこと、
足さばきが終始スムーズだったからでしょう。
そのおかげか少し筋肉痛がきてしまいましたが
大阪マラソンに向け良い筋トレになりました。
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何十年も住んでいても、歴史ある街道で有ったとは知りませんでした。
長い歴史に想いを馳せながら、大切に手入れして行こうと思います。
ありがとうございました。
こういった旧道は人が通らなくなると廃れていくもので、
いつも手入れされてる地元の方には頭が下がる思いです。
この道は大阪の中でも歩いてよかった街道でしたので、
また機会を見つけて再訪してみたいと思います。