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高瀬川沿いを進みます。
かつての京の都には御土居という土塁があって
中の人は”口”と呼ばれる出口から外に出ていました。
今回は三条大橋からスタートしましたが
志賀越道の本来の起点は荒神口です。
古くは吉田口、今道口、志賀道口ともよばれています。
江戸時代はここを境に洛中、外を洛外と分けられ
御土居が作られた戦国時代には七つの口がありました。
荒神橋は大正3年製。
水害で2度も流されてますが復旧しています。
御所からの重要な道(避難路)ということもあって
幕末においても立派な橋が架けられています。
荒神橋を渡ると斜めの道を進みます。
京の道は碁盤の目のような道筋が基本ですが
志賀越道は平安時代の頃からと歴史が古い上に、
洛外であったことで町割りに関係しなかたっようです。
京大の吉田キャンパス。
幕末までは構内を斜めに横切っていたのですが
尾張藩下屋敷が作られる際に分断されています。
なぜ歴史ある街道の道筋をわざわざ分断したか。
調べていくと面白いものがありました。
一つに志賀越えの途中にあった崇福寺の衰退。
延暦年間には当時の十大寺に選ばれて栄えたのですが
抗争や火災などで室町時代には廃寺になってしまっています。
元々、志賀越道は崇福寺の関係で賑わっていたので影響は大きく
追い打ちをかけて東海道などの新道が整備されていくと
京から近江へのメインルートが変化していきました。
角にあった宝永年間の道標には
右 さかもと、からさき、白川
左 百まんへん。
と、刻まれています。
一応、行き先となる名前は書かれてますが
志賀越道は江戸時代においてはすでに脇道的な存在だったようで
尾張藩下屋敷で迂回させても特に問題なかったと考えられています。
志賀越道は歴史が古い道だけあって
古い時代の石仏が数多く見かけることができます。
上の子安観音さんは鎌倉時代のものです。
秀吉が聚楽第に石仏を移したところ不気味な声で
夜な夜な「白川へ返せ」と言っていたそうで
元の場所に戻すと声が止んだという話があります。
少しずつ勾配が出てきました。
明治時代に出来た琵琶湖疎水との交差地点。
疎水の位置が高いので滝のように潜る形で立体交差になっています。
志賀越道は琵琶湖疎水と直交する。
白川と平行する府道を進みます。
この道は比叡山ドライブウエイや
国道161号のバイパス道とも接続しているので
交通量が結構多いのは難儀なところです。
しかも歩道がないのでヒヤヒヤしました。
川は次第に渓谷に。
次の山中集落の手前には
不動院とラジウム温泉がありました。
温泉旅館のような佇まいですが日帰り入浴が可能で
ラジウム量が半端ないことで有名だそうです。
川に沿った道は洪水などの影響にさらされることが多いですが
ふと、川向こうを見ると人工的な石積みと路盤がありました。
おそらくは旧道だとは思うのですが
明治の地図では今歩いてる府道が道筋になってるので
旧道だとするとそれ以前のルートかもしれません。
滋賀県との県境を越えます。
峠はまだ先。
山中の集落は比較的大きなもので
名前のとおり山間の村で風情があります。
古くは宿場だったという記述もあり
峠の拠点として栄えていたそうです。
また寺が多いのも特長的で
鎌倉時代の阿弥陀如来石仏は道沿いにあり
街道をゆく我々を見守ってくれてるかのようです。
このような双体道祖神も多いです。
関西では珍しいものです。
志賀越道は県道(京都府内では府道)と分かれます。
この先の県道は永禄年間に信長の命によって作られた新道で
志賀峠の道筋はそれ以前の本道にあたります。
次第に山深くなっていきますが
砂防ダムの影響で随分と地形が変わってるようです。
旧道は砂防ダムの底を通っています。
水が蓄えられていないので歩くことが出来ますが
「白川砂」という川砂なので歩きづらいものです。
それでも路盤はしっかりしてる感じで
明治の資料では川の右側を進むルートなのですが
砂防ダムが出来てから水路が変わってしまったと思うので
多少疑問点はあるもののこの道が正解なのでしょう。
立派な常夜灯です。
左 むどうじ道と書いてる道標もあります。
”むどうじ”とは比叡山無動寺のことで
常夜灯の間を抜けると寺へ行けるようです。
門型の砂防ダム
ここからはさらに歩きづらくなっていきます。
案内看板は所々に立っていて安心感はあるのですが
道はこの通り、びっしりのシダの藪道。
所々では崩壊している箇所がありました。
コンクリの擁壁は比叡山ドライブウェイのもの。
道路をくぐると峠になります。
展望は雨のためか皆無でしたが
晴れだと違っていたかもしれません。
峠から先は古道の風情の中を進みます。
大きな掘割状になっている所もあり見事なものです。
ただ、こちらも崩壊してる箇所が多く、
水路には土砂がたまり道に水が流れ込んでいるなど、
道がどんどん崩れていってる感じがします。
張り紙には今通ってきた道が通行不能とあります。
京都府側には何もなかったのに。
志賀大仏。
5mはあるでしょうか。
ここには立派な小屋があり
雨をしのげて昼食を取れました。
大仏を過ぎるとあとは良い道です。
目の前には琵琶湖が広がります。
やがて西近江路との追分。唐崎です。
近くには近江八景のひとつである唐崎神社があり
ここからの眺めはなかなかのものです。
志賀越え道は崩落を止めなければ
どんどん廃道に向かってるように思えます。
崩落個所だけでも整備すると距離も手ごろだし
人気のハイキング道になるのではと思いました。
砂防ダムがこんな風に出来てしまっているところをみると、この区間は道と言うより涸れ沢と認識されていて、治水上は何れここは土砂で埋まってもやむを得ないという想定になっている様ですね。あまり古道として省みられている風ではないのがちょっと残念です。
kanageohis1964さん
コメントありがとうございます。
周囲の高い場所には迂回路も整備されてましたし
いずれ土砂で埋まってしまうと思うと残念です。
常夜灯も埋まってしまうのでしょうね。
先日、この区間を歩きましたが、山中町〜志賀峠までの区間では下草が少なくて歩きやすかったです。道標もかなり容易に見つけれます。冬で薮枯れだけではなく、下草も刈られているのではと推測されます。
冬なら藪漕ぎしなくてもハイキングを楽しめると思いました。
コメントありがとうございます。
やはり季節によって歩きやすさは違うようですね。