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境宿の朝。
利根川を前にした宿場だけに規模は大きく、
南北に続く町並みは一見の価値があります。

画像提供・東京国立博物館
古い絵図にもバッチリ町並みが描かれています。
これは五海道其外延絵図の関宿通多功道というもので
幕府の手によって作成されたものです。
こういう絵図は重要な街道のみ作られていることから
日光東街道も主要街道であったことがわかります。
絵図は東京国立博物館の画像検索で見ることができます。
他にも東海道や中山道などもあり見応えたっぷりです。
日光東街道は単調な景色が多いですが
絵図を手元に見ながら歩くと楽しいものです。
今回の区間においては柏→境宿までと比べると
住宅地は減り田畑が広がる光景が多くなっていきます。
この辺りはお茶の産地ということから
茶畑を見かけることができました。
谷貝宿。
100軒規模の宿場町でした。
道路を見てみると宿場の前後において
幅が異様に広くなっているところを見かけます。

明治期の地図で確認してみると
道に沿って点々が付いているのがわかります。
この印は松並木か杉並木があったということで
道幅が広い理由はその跡地だったというわけです。
たとえばこういう場所
続いての宿場は仁連宿。
入口には枡形の跡が残っています。
この直角カーブが枡形の名残
仁連宿は120軒前後の宿場町でした。
絵図によると宿場の中央部に
高札場があり向かいには本陣があったそうですが
先ほどの谷貝宿と同様あまり面影が残っていません。

仁連宿の絵図
この辺りの宿場は短い間隔で続いています。
次の諸川宿は一転して古い風情が残る宿場でした。
見世蔵作りの立派な家々が残っていて
本陣が付近には屋敷の塀が続いていました。
この微妙になカーブをしてる道筋なんて
おそらくは枡形のような役割があったのではと思います。
橋を渡りクネクネした旧道を進むと七五三場の集落です。
この七五三場の手前に旧道が残る
読み方は「しめば」。なかなの難読ですよね。
iPhoneで入力するとキチンと変換できたのには驚きました。
由来としては幕領で養蚕などの聖地だったらしく、
立入禁止ということの〆(しめ)とのことです。
行事の七五三とはどうも関係ないみたいです。
野菜畑の光景が続きます。
立派な長屋門を構えた家々が増えてきました。
武井宿を経て吉田用水の水路と合流し、
水路と平行して進むと結城宿に入ります。
結城は城下町でもあるので防御の観点からか
道筋が大きくコの字に曲がっています。

絵図で確認するとこの通り。
ここまでなっている宿場はそうそうありません。
土地勘があれば短絡して歩く人もいたでしょう。
しかし正確な地図やGPSも持たない当時の旅人にとっては
道にある並木や家並みになんとも心強いもので
この絵図の通り歩いて行ったのではと思います。
毘沙門天の前にある追分常夜灯。
台座には小山、さかいの文字が刻まれています。
毘沙門天は街道から少し離れた場所にありますが
おそらくこの道標は寺に寄り道をした旅人が
本来の道に戻るための道しるべではと思います。
結城は関ヶ原の戦い以前は
徳川家康の次男秀康が結城家の養子に入り支配していました。
その後は幕領を経て譜代の水野家が支配していくことになります。
結城というと結城紬で有名ですね。
取り扱う立派な家々が軒を連ねています。
軒先には結城紬ののれんが掛かって
なんとも風情がいいものです。
名物としては「ゆでまんじゅう」を見かけました。
饅頭を茹でたものでほっこりしててなかなかの美味でした。
結城宿の北の端に2つ面白い道筋がありました。
上の写真は枡形の役割をもっていたようです。(1)の場所。

この場所は絵図では真っ直ぐの道が描かれていません。(2)の場所。
一見、直進の道も古い道であるようにも見えるのですが
白い建物の後ろが少し小高くなってるのに注目です。
この小高い丘は、当時の技術においても
切り開いて直進する道を作ることが可能だったと思います。
ここをあえて迂回する形で道を作ったということは
自然の地形を利用しての枡形ということなのでしょう。
筑波山が見えてきました。
物流基地を過ぎると山の中に入っていきます。
アスファルト舗装がなければ
まるで江戸時代に戻ったかのような光景です。
この売店なんて茶屋のよう。
北関東は麦畑が多いですね。
相変わらず一本道が続きます。
ふと横の景色を見てみると
街道は他の場所より一段高い場所を進んでいるのがわかります。
川と川に挟まれているので安定した場所を選んでということなのでしょう。
仁良川の集落には陣屋がありました。
宿場ではないので人家は少なかったようですが
絵図を見ると立派な枡形があり重要な場所だったことがわかります。
不自然に曲がり道が多い薬師寺付近。
街道沿いには石仏が大事に安置されていました。
下野薬師寺は資料館が併設されています。
奈良時代において正式な戒壇が設けられたのですが
当時全国に3カ所しかない珍しいものだったので
「本朝三戒壇」と総称されたそうです。
現在は発掘調査が進んでいるようですが
あまりの広い敷地には圧巻でした。
大谷石を使った建物が増えてきました。
やがて多功宿に入ります。
古い道標には石橋の文字が刻まれています。
これは日光街道の石橋宿のことで、
この辺りは日光街道とほぼ平行して進んでいきます。
JRの貨物ターミナル付近を過ぎると日光街道との追分。
雀宮宿はまだ少し先ですがこれにて完歩としました。
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