↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
ひたち野うしく駅は科学万博の臨時駅で、
当時は万博中央駅と名乗っていました。
駅と国道の間には巨大なバスターミナルがあったのですが
現在はショッピングセンターなどに生まれ変わっています。
中根の一里塚。
江戸から数えて17番目。
両塚が残っていて貴重なものです。
ひたち野うしく駅が開設されてからは
新しい家々が立ち並び住宅地が開発されてますが
そういう中で昔からのものが残ってるのはうれしいですね。
荒川沖宿は国道から少し離れています。
小さな宿場で本陣は置かれておらず、
正規の宿場だったものの役目は最小限だったようです。
宿場には茅葺の建築が二軒残っています。
ひとつは元旅籠の「佐野屋」のもので
なんともいえない良い風情をかもしだしています。
次の中村宿は本陣もあった宿場でした。
50軒余りの小規模な宿場だったそうですが
開発で宿場であった痕跡はあまりないようです。
坂を下って川を渡ると再び坂を上へ。
アップダウンがあるスリ鉢状の地形が続きます。
この立派な馬頭観音さんの下には
小さな道標が立っています。
「みつかいどう」の文字。
水海道とは現在の常総市のこと。
常総市は豪雨での鬼怒川の決壊が記憶に新しいですが
地名に水が付いてる場所って何かしら水害があったりなど
水と関わりのある歴史を刻んでいることが多いように思います。
水戸街道の沿道の災害においては
取手宿付近は水害で大きく付け替えられていますが
当時は技術的に治水対策が十分ではなかったせいか
氾濫原の平地を通さず高台にわざわざ迂回してることもあります。
アップダウンがあったりと不便はあったと思いますが
長い目で見ると安定輸送や安定した生活に繋がるわけで
旧街道沿いが災害に強いとされる1つの理由かもしれません。
土浦宿に向けて一気に下ります。
常福寺にある展望台からは宿場全体を一望できます。
筑波山が目の前に!
なかなか清々しい景色です。
土浦宿は土浦城の城下町であるとともに、
霞ヶ浦水運の物資集積地で栄えていました。
城下に入ると枡形がいくつも続きます。
いかにも城下らしい雰囲気です。
枡形の跡の一つ
古建築もいくつか残っていますが
311の被害で修復中のものもありました。
土浦城は別名亀城と呼ばれています。
右に北門の碑がみえる
城下の出口には北門があり
ここにも大きなS字状の枡形がありました。
ほどなくすると旧筑波鉄道の線路跡を越えます。
廃止となって結構経ちますがプラットホームも残り、
サイクリングロードとして整備されています。
真鍋宿。
坂の途中にある宿場で
規模は小さく間の宿程度の役割だったそうです。
しかしながら、坂の下では鹿島街道と交わり、
坂の上では筑波街道と交わる重要な場所だったようで
立派な家々を見るに結構な賑わいがあったと想像できます。
いい感じの松並木です。
電信柱も木の色になっていて景観に配慮されています。
途中には板谷の一里塚。両塚が残ります。
旧街道の坂道を歩いていると
車を通すために改良された箇所をよく見かけます。
段差に削った跡が見受けられる
たとえば、険しい峠の場所だとトンネルを掘ったり、
急勾配を緩和するために全体を掘り下げたりなど。
車が非力だった時代の名残りですね。
土浦バイパスと交差した先にあるのが中貫宿。
ここには本陣の建物が残っています。
ただし宿泊を常とするものではなかったようで
茶屋本陣的な役割なものでした。
元々は茅葺の屋根でしたが銅板で覆われています。
それにしても静かな風情です。
どこか遠くの田舎に来ているような感覚です。
地形的にもアップダウンが続いているので
関東平野といえど全然違う雰囲気があるものです。
稲吉宿は比較的新しい宿場町で
水戸街道が整備した後に出来たものです。
本陣(現 坂本家住宅)が残ります。
また旅籠皆川屋(現 木村家住宅)も残っていました。
こちらは元の旅籠
落ち葉が舞う晩秋のような雰囲気。
恋瀬川から眺める筑波山の夕焼けを見てると
秋が深まってるいることを実感させられます。
府中宿。現在の石岡の町でゴールとしました。
ちょうどこの日は祭りで大賑わい。
なんともえらい時に来たものです。
【カテゴリ:その他の街道の関連記事】