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石岡まつりの開催中でしたが
早朝はひっそり静かなものでした。
メインストリートでは
ゴミ収集車の音だけが響きます。
石岡は大火を繰り返してきた歴史があったので
江戸期の建物はほとんど残っていません。
そんな中で目立つのは
昭和4年の石岡大火のあとに建てられた看板建築。
ナイスなレトロな建物が軒を連ねます。
立派な見世蔵造りのものもありました。
江戸期の府中は松平家の陣屋がおかれ、
古代においては国分寺が設置されたりと
地域の中心的役割をもった町でした。
常磐線の跨線橋には
かつての国分寺の情景が描かれています。
このような昔の杉並木の写真があったりと
今と比較が出来てわかりやすくていいですね。
石岡の一里塚。
両塚が残る立派なものです。
向こうから山車が回送してきました。
一里塚とパチリ。祭りの時ならではですね。
この付近の道路には左右に空間がありますが
杉並木があったものと想像できます。
よく見ると切り株も残っていました。
あちこちに咲く彼岸花。秋ですね。
次の竹原宿は比較的新しい宿場町。
府中と片倉の間のルート付け替えで設置されています。
主な役割は荷継ぎの中継だったようで
本陣はなく小じんまりした宿場でした。
鬼子母神さん。
この付近からよく見かけました。
関東には庚申さんの石仏もよく見かけますが
いずれも関西では珍しいものです。
片倉宿は脇本陣と問屋場が各1軒あった宿場。
宿場の中央部の角には元旅籠の「かと家」があって
昔の名残を感じることができます。
続いての宿場は小幡宿。
宿内の法円寺には水戸藩専用の宿でもありました。
この小幡宿と次の長岡宿は
水戸街道にとって特別な場所でもあります。
双方とも水戸藩領だったことから
手厚く保護されていていたという話です。
長岡宿では本陣の他に御殿も設置されていました。
長岡宿の名物は「みそ饅頭」
宿場の入口に何軒かお店がありました。
見どころの一つとしては
脇本陣、問屋を兼ねていた木村家住宅が現存するのですが
この日はあいにく公開されていませんでした。
先ほどの小幡宿と同様に長岡宿も住宅地になってしまい
一見すると宿場の全くなくなっているようですが
キョロキョロ探してみると、ありました!
「長岡宿商工振興会」
これはまさしく名残と言えるものでしょう。
水戸の中心部へ。
国道沿いを進み市街地へと入っていきます。
交差点にあった馬頭観音さん。
自動車に当てられたのかすっぽり折れていました。
早く元通りになると良いのですが。
長岡宿の手前で台地の上にあがった道筋は
水戸城下の手前で下って行きます。
そこにあった坂の名は「男坂」と「女坂」。
男坂のほうが険しく長く、
女坂は緩やかな優しい坂になっています。
ちなみに真ん中の坂は新道です。
元々は軍事用だったので立派に整備されています。
坂の途中には吉田神社がありますが
ここからの眺めは茨城百景の一つといわれています。
ただし、今の見晴らしは・・・
きっと草木がなければ最高なのでしょう。
備前堀の魂銷橋に高札場がありました。
備前堀とは伊奈備前守忠次が作った堀で
灌漑目的と桜川・千波湖の洪水防止のためのものです。
伊奈忠次は関東の治水に大いに貢献した人で
晩年は水戸で過ごされています。
個人商店が並ぶ商店街を過ぎると
水戸街道のゴールはもうすぐ。
途中で水戸城への道と分かれ、
水戸宿中心部へと入っていきます。
ここが水戸街道のゴール。
この先は陸前浜街道として仙台へ続いています。
さて、無事に踏破しての感想ですが
我孫子宿までは市街地ばかりで単調なものの
そこから先は意外と多くの街道風情が残っていて驚きました。
地形的においてもアップダウンが多く、
ここがホントに関東平野なの?と思うことも多々。
水戸街道は全長で100kmほどの街道なので
初心者にとっても気軽に街道気分を味わえるのないかと思います。
もしかすると日光街道よりも充実感はあるかもしれません。
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