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今回の行程は長距離な上に峠があることを考え
まだ薄暗い中の横尾駅よりスタートしました。
橋を渡って芦田川との中州地帯を進みます。
周辺の家々を見ると一段高く建てられています。
三重県の輪中のような洪水対策なのでしょう。
大きな芦田川の渡し場は「大渡し」
普段は川の中を歩いていくのですが
冬は1枚板の仮橋が架けられていたそうです。
増水期は渡し舟の時もあったといいます。
芦田川の下流域には福山城下があるわけですが
治水は城下を守るため早い段階から行われています。
西国街道は治水によって作られた堤防を進みます。
治水以前は山側の細い道を進んでいたという説がありますが
かなり時代を溯らないといけないのでルートは謎な部分が多いようです。
堤防上には歩道がありません。
江戸時代の高さはもう少し低かったものと思われます。
治水はいろんな知恵が凝縮されています。
堤防の形が両岸によって違っているのは代表例。
下流域に向かって左側が城下方面になるのですが
右側の堤防を一段低く作ることで洪水の際は右に流れるようにして
城下が水浸しになることを防いでいたとのことです。
堤防上の何もない景色の中を進んでいきますが
江戸時代の治水に思いをはせて歩くと楽しいものです。
この堤防はいわゆる郷分土手と言われています。
堤防沿いには二本松、三本松という地名が残っています。
堤防から下りてしばらく一本道を進みます。
突然現れた大きな檜の木は元は一里塚。
福山城下への道標。
大坂とふく山の文字が見えます。
西国街道は福山の西をかすめるように進んでいきます。
福山城下に西国街道を通さなかった理由としては
海路を重視していたということもありますし、
地形的なこともあるのでしょう。
一つ興味深い点としては
笠岡を中心に鴨方往来という道があったのですが
山側の谷間を進んでいる西国街道に対して、
現在の国道2号に近いルートを通っています。
俗に岡山藩六官道のひとつにあたる道筋です。
現在の感覚だと鴨方往来を利用すれば
近道でもあるし楽なのではと思うのですが
おそらく地盤が安定してない場所があったり、
古代からのルートで賑やかだった西国街道ルートが
利便的、総合的な観点で良かったのかもしれません。
水越峠というプチ峠を過ぎると
アップダウンのある道筋になっていきます。
ふと横を見ると奥に見えたのは備後赤坂駅。
街道は現在の国道よりも高台を通っているのがわかります。
坂の下に駅が見える
常夜灯その1
巨大な金比羅山常夜灯。
この付近には大きな特長的なものが多いですね。
3月上旬ということもあって梅の花が満開でした。
常夜灯その2
今津宿に入ります。
現在の松永駅周辺が宿場にあたるのですが
ルートは資料によって様々あり特定が困難でした。
いつも重要視するのは古地図なんですが
下の写真の場所では真っ直ぐ進む説が大半です。

ところが中国行程記やあらゆる古地図では
弧を描く感じで描かれてる場合が多いのです。
真っ直ぐ進むと一里塚の跡の碑があるそうですが
実際にそこにあったかは謎です。
逆に古地図の道筋は絶大な信用は出来ないもので
道筋が大まかなので怪しいことがあるんですが
今回は古地図を信じて左に進むことにしました。
今津宿には本陣、脇本陣が存在します。
本陣は立派な石垣と門がしっかりと残っていて、
脇本陣は蓮花寺が使用されたとのことです。
近代になってこういう遺構は取り潰され、
駐車場や公民館になってるケースが多いですが
少しでも遺構が残ってることは嬉しいものです。
山沿いを進み、関の地蔵のあたりに道標がありました。
「右ちかみち」
ここは海沿いに尾道へと進む道との追分にあたります。
西国街道はこれより山深き中へと進路を変えます。
関の地蔵
防地峠の旧道
防地峠を越えると尾道はすぐです。
次第に勾配をあげ大きな池を横目に見つつ進みます。
峠はそれほど険しくないので楽だったのですが
当時は芸州藩と福山藩の国境にあたるので
旅人は決して楽な気持ちで通れる峠ではなかったことでしょう。
峠の高台には今も番所の建物が残っています。
街道を下に見る形になってるので特等席です。
峠には芸州、福山双方の境界碑も残り、
往時の国境風景を垣間見ることができました。
坊地峠より尾道へ一気に下ります。
下り道において本来の旧道が残っていました。
ちょうど道がヘアピンカーブしている場所です。
入口は少し崩落しているので
本来は5mほど上から取りついていたようですが
全般的に路盤はしっかり残っていて良い道でした。
(詳しくはヤマレコの記事を参考にしてください)
尾道は昭和の懐かしさ溢れる光景が広がっています。
そしてグルメも多く大勢の観光客で賑わっていました。
街道的には商店街の中に一里塚や枡形、
奉行所があったそうですがどれも跡のみで
一里塚に至っては碑すらありません。
しかしながら、これほどまで多くの人々が
商店街を歩いている姿を見ていると
かつての尾道宿の賑わいを感じれた気がしました。
尾道駅の山側は飲食店街。
街道は今の山陽本線沿いを進まず、
大きく山側へと迂回するルートをとります。
いわゆる七曲り坂です。
急な坂道を進んでいく道筋で
ところどころ道幅が狭くなってわかりづらくなっています。
本当にこれが街道なの?という感じでしたが
当時の尾道の河口付近は地盤が安定してなかったそうです。
アップダウンが続きます。
続いての峠は大入峠。
道幅は狭くいかにも旧道といった風情です。
峠には一里塚跡の碑がありました。
峠を下ると海が見えてきます。
西国街道は瀬戸内海に沿って進む道筋ではあるんですが
実際にはほとんど海沿いを進む機会はありません。
これは先ほどから書いてあるとおり
地盤が安定していなかったことが大きな理由でしょうし、
海は海で海運が発達していたということもあるのでしょう。
あいにくの雨で島が霞んで見えます。
雨の街道はこれはこれで風情があっていいのですが
海に関しては晴れていたほうが断然いいですね。
糸崎神社の入口。
狛犬が海側に座っています。
ここは広島玉乗り狛犬の発祥の地だそうです。
糸崎神社の門は元は三原城の城門です。
境内には大きな楠木もあって見どころも豊富。
時間があればゆっくりしたい場所です。
三原市街が近くなってきました。
糸崎駅周辺には集落内を通る狭い箇所があります。
なぜこれほどまでに分岐を繰り返す道筋だったのかは不明ですが
港があるのでその関係なのかもしれません。
この道にはバスが通っていたそうです。
よく見ると曲がり角は直角の曲がり角ではありません。
微妙に曲がってるあたりここが昔のメインルートだった証でしょう。
この付近には三原城の東惣門があったようです。
線路沿いの道に城門跡の碑がありますが
碑には10m南と書かれてあり旧道はこの道で正解です。
川の中には東大手門?の石垣が残っていて
橋の手前には本陣があったといいます。
三原城の石垣は立派です。
普通は防衛の意味で本丸の横なんて街道を通さないものですが
三原城は古地図にもしっかりと道筋が描かれています。
なんとも不思議な三原城下です。
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この区間を2月中旬にあるきました。
写真115で「道路を広げています。近い将来の道筋は一変することでしょう。」と書かれていましたが、まさに一変していました。
尾道バイパスと三原バイパスとつなぐパイパスである木原道路が造られていて、写真の付近にはジャンクションになっていて街道がパイパス下を潜っており、立派な道になっていました。バイパスとの交差区間を過ぎると旧道の道幅になります。
まだ完成していないので道筋の変更がまだあるかもしれません。
2月中旬でしたが、天気もよく暖かい日でしたので海は穏やかで景色も良く、遠くの瀬戸大橋もみえました。
海沿いの道を歩いている時には与謝蕪村の「春の海 ひねもすのたり のたりかな」を彷彿とさせる街道歩きにはぴったりの光景でした。
写真17の付近の公民館でお手洗いをお借りした時に、職員の方と西国街道を歩いてます、って話をしたら熱中症対策にとペットボトルのお茶を1本いただきました。
とてもうれしかったです。
暖かくて穏やかな瀬戸内の春と人の優しさを感じた春の日でした。
この区間は海を見ながら歩けるという貴重な反面、
天候が悪ければ見通しが悪く海からの風で大変なこともありますね。
天候の良い中を歩かれたようで何よりでお疲れ様です(*´ω`)