雨の道中になりました。
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いきなり難所が待ち構えています。大山峠です。
明治に入って現在の国道と鉄道が出来るまでは
大山峠がメインルートで多くの人が行き交っていました。
山深い場所ですが
八本松駅の時点で既に標高が高いので
東から進む場合は意外と楽な峠越えです。
しかしながら、道の状態が悪い。
靴がドロドロになってしまいました。
大山峠での下り道。
峠の前でもそうだったのですが
明治時代に土砂崩れがあった影響で
元々の道が一部付け替えられてしまっています。
綺麗な滝です。
大山峠は急だったため駕籠に乗った人も
ここから歩いて登ったのだとか。
やがて民家が見えてくると
川と国道と線路と平行して進みます。
この付近の鉄道はセノハチと呼ばれています。
貨物列車は補機がないと運行に支障がでるほどの難所です。
時おり1両で下ってる行く姿を見かけますが
これは次なる押上げのために回送しているためで
他ではあまり見かけない珍しい光景になっています。
川の水がとても綺麗です。
名残りの松が残っていて風情ある中を進んでいきます。
瀬野駅手前には間の宿がありました。
平山神社を中心に発展してきた上瀬野一貫田宿。
大山峠を前にした休憩の拠点でした。
広島らしい瓦の民家が軒を連ねます。
瀬野駅の裏側の旧道には明治の道標がありました。
「左、縣道。右、國道」
こういう道のみの表記は珍しいですよね。
「右ハ 四日市、左ハ志わ」
道標の横には一里塚の跡もあったりしたので
かつての瀬野は一大拠点だったことがわかります。
安芸山陽道の標識。
海田市付近まで多く見かけることができました。
瀬野を過ぎれば広島市街地まで近くなってきます。
山にへばりつく形で新しい住宅地が開発されています。
この立派な松は出迎えの松。
広島城下が近いこともあって家来はここで
参勤交代の責を終えた藩主を出迎えてました。
安芸国内の道幅は二間半(4.55m)と定められて
松並木や一里塚が整備されていました。
今は数本しか残ってませんが
古写真を見ると往時の姿が目に浮かびます。
海田宿手前には「海田ふるさと館」がありました。
地域の民俗歴史資料の展示がある資料館で、
街道沿いにあった道標が移設されてあったり、
海田市の土地の変遷など興味深いものでした。
裏にある巨大な檜も必見です。
この道の膨らみは街道松があった名残り。
案内板には古写真が添えられていて
リアルに情景を思い浮かべることができました。
こういう新旧対比できる案内板はいいものですね。
海田宿の本陣跡。
広島藩は藩主の公用宿泊所として藩直轄が多かったのですが
これらは御茶屋とも呼ばれ藩主以外も利用できたそうです。
往時の建物自体は既になくなってるのですが
幅広な土地と豪華な石積みのスロープに面影がありました。
海田宿の重要な場所の一つが海田恵比寿神社。
この神社を中心に上市、中市、下市と地域がわかれていました。
左手にある千葉家住宅は見学することができます。
千葉家は藩の輸送に関する重要な役目を担っていました。
江戸時代の木造建築物です。
原爆で広島市街地の古い建物がなくなってしまってるので
往時の雰囲気を伝える貴重な建物ではないでしょうか。
海田宿を過ぎると船越峠が待ち構えています。
海田市という町は江戸時代から海の干拓が活発だったので
時代を追うごとに使える土地が広くなっていっています。
瀬野川の流れも土地改良の影響で川筋は変わっています。
昔は宿場中心部である今の海田市駅付近を流れていました。
船越峠手前にある旧道分岐ポイント。
どちらも西国街道で正解ですが左は1808年以降の道です。
対する右はそれ以前の道でプチ峠越えが待っています。
ようするに1808年までは左の道筋は海が広がっていたということで
海を避けるために峠越えをせざるえなかったのでしょう。
船越峠は今や住宅街の中にある峠ですが
雰囲気的に昔は山の中だった雰囲気がプンプンしています。
この船坂峠への街道の道筋は
一車線にも関わらずとんでもない量の車が行き交っていて
歩くのに大変苦労したのですが峠を越えて謎が解けました。
峠の先はなんと4車線道路のバイパス道。
だから多くの車が殺到していたわけですね。
広島市街地に入ってきました。
住宅街の中を進んでいきます。
原爆爆心地から3.3km地点。
寺の前に当時を伝える案内看板があったのですが
写真を見ると全壊寸前だった様子がわかります。
古い家屋はないものの道筋は昔のままなので
多くの被災者もこの道を通ったのだろうと想像できます。
この先の西国街道は爆心地を通っていくわけですが
広島市街地区間は原爆と切り離しては語れないですね。
三本松跡。
三本松が植わったモニュメントと
横には我羅我羅橋の跡がありました。
かつて小川に架かっていた橋だったのですが
竹で出来た橋だったので渡る時にガラガラ音がしたとのことです。
広島駅構内を過ぎると猿猴橋を渡ります。
広島は太田川の中州で栄えたので
この先で何本もの橋を渡ることになるのですが
戦前からの橋も原爆に耐えいくつか残っています。
この猿猴橋の竣工時は
立派な飾りが欄柱の上に立っていましたが
戦前の金属回収によって撤去されてしまいました。
でも、最近になって復活の動きがあるみたいです。
猿猴橋の次は京橋。
城から見て京に近い橋ということで京橋ですが
ここからがいよいよ広島城下ということになります。
繁華街の中を通り抜ける西国街道。
多くの若者で賑わっていました。
爆心地近くが広島宿。
元安橋のたもとには道路元標があります。
かつては大きな高札場も立っていたり、
太田川を行き交う水運(人、モノ)の利から
城下の中心として賑わっていました。
元安橋から見る原爆ドーム。
ドームと街道とは目と鼻の先の位置です。
街道は平和公園の中を抜け己斐橋を渡ります。
己斐橋は太田川の本流に架かる橋です。
やがて今回のゴール西広島駅。
広電に乗って帰路につきました。
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