2016年02月17日

西国街道その13・八本松駅→西広島駅

いよいよ広島城下へ。
雨の道中になりました。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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いきなり難所が待ち構えています。大山峠です。

明治に入って現在の国道と鉄道が出来るまでは
大山峠がメインルートで多くの人が行き交っていました。

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山深い場所ですが
八本松駅の時点で既に標高が高いので
東から進む場合は意外と楽な峠越えです。

しかしながら、道の状態が悪い。
靴がドロドロになってしまいました。

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大山峠での下り道。

峠の前でもそうだったのですが
明治時代に土砂崩れがあった影響で
元々の道が一部付け替えられてしまっています。

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綺麗な滝です。

大山峠は急だったため駕籠に乗った人も
ここから歩いて登ったのだとか。

やがて民家が見えてくると
川と国道と線路と平行して進みます。

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この付近の鉄道はセノハチと呼ばれています。
貨物列車は補機がないと運行に支障がでるほどの難所です。

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時おり1両で下ってる行く姿を見かけますが
これは次なる押上げのために回送しているためで
他ではあまり見かけない珍しい光景になっています。

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川の水がとても綺麗です。
名残りの松が残っていて風情ある中を進んでいきます。

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瀬野駅手前には間の宿がありました。

平山神社を中心に発展してきた上瀬野一貫田宿。
大山峠を前にした休憩の拠点でした。

広島らしい瓦の民家が軒を連ねます。

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瀬野駅の裏側の旧道には明治の道標がありました。

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「左、縣道。右、國道」

こういう道のみの表記は珍しいですよね。

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「右ハ 四日市、左ハ志わ」

道標の横には一里塚の跡もあったりしたので
かつての瀬野は一大拠点だったことがわかります。

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安芸山陽道の標識。
海田市付近まで多く見かけることができました。

瀬野を過ぎれば広島市街地まで近くなってきます。
山にへばりつく形で新しい住宅地が開発されています。

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この立派な松は出迎えの松。

広島城下が近いこともあって家来はここで
参勤交代の責を終えた藩主を出迎えてました。

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安芸国内の道幅は二間半(4.55m)と定められて
松並木や一里塚が整備されていました。

今は数本しか残ってませんが
古写真を見ると往時の姿が目に浮かびます。

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海田宿手前には「海田ふるさと館」がありました。

地域の民俗歴史資料の展示がある資料館で、
街道沿いにあった道標が移設されてあったり、
海田市の土地の変遷など興味深いものでした。

裏にある巨大な檜も必見です。

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この道の膨らみは街道松があった名残り。

案内板には古写真が添えられていて
リアルに情景を思い浮かべることができました。

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こういう新旧対比できる案内板はいいものですね。

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海田宿の本陣跡。

広島藩は藩主の公用宿泊所として藩直轄が多かったのですが
これらは御茶屋とも呼ばれ藩主以外も利用できたそうです。

往時の建物自体は既になくなってるのですが
幅広な土地と豪華な石積みのスロープに面影がありました。

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海田宿の重要な場所の一つが海田恵比寿神社。
この神社を中心に上市、中市、下市と地域がわかれていました。

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左手にある千葉家住宅は見学することができます。
千葉家は藩の輸送に関する重要な役目を担っていました。

江戸時代の木造建築物です。
原爆で広島市街地の古い建物がなくなってしまってるので
往時の雰囲気を伝える貴重な建物ではないでしょうか。

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海田宿を過ぎると船越峠が待ち構えています。

海田市という町は江戸時代から海の干拓が活発だったので
時代を追うごとに使える土地が広くなっていっています。

瀬野川の流れも土地改良の影響で川筋は変わっています。
昔は宿場中心部である今の海田市駅付近を流れていました。

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船越峠手前にある旧道分岐ポイント。

どちらも西国街道で正解ですが左は1808年以降の道です。
対する右はそれ以前の道でプチ峠越えが待っています。

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ようするに1808年までは左の道筋は海が広がっていたということで
海を避けるために峠越えをせざるえなかったのでしょう。

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船越峠は今や住宅街の中にある峠ですが
雰囲気的に昔は山の中だった雰囲気がプンプンしています。

この船坂峠への街道の道筋は
一車線にも関わらずとんでもない量の車が行き交っていて
歩くのに大変苦労したのですが峠を越えて謎が解けました。

峠の先はなんと4車線道路のバイパス道。
だから多くの車が殺到していたわけですね。

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広島市街地に入ってきました。
住宅街の中を進んでいきます。

原爆爆心地から3.3km地点。
寺の前に当時を伝える案内看板があったのですが
写真を見ると全壊寸前だった様子がわかります。

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古い家屋はないものの道筋は昔のままなので
多くの被災者もこの道を通ったのだろうと想像できます。

この先の西国街道は爆心地を通っていくわけですが
広島市街地区間は原爆と切り離しては語れないですね。

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三本松跡。

三本松が植わったモニュメントと
横には我羅我羅橋の跡がありました。

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かつて小川に架かっていた橋だったのですが
竹で出来た橋だったので渡る時にガラガラ音がしたとのことです。

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広島駅構内を過ぎると猿猴橋を渡ります。

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広島は太田川の中州で栄えたので
この先で何本もの橋を渡ることになるのですが
戦前からの橋も原爆に耐えいくつか残っています。

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この猿猴橋の竣工時は
立派な飾りが欄柱の上に立っていましたが
戦前の金属回収によって撤去されてしまいました。
でも、最近になって復活の動きがあるみたいです。

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猿猴橋の次は京橋。

城から見て京に近い橋ということで京橋ですが
ここからがいよいよ広島城下ということになります。

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繁華街の中を通り抜ける西国街道。
多くの若者で賑わっていました。

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爆心地近くが広島宿。
元安橋のたもとには道路元標があります。

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かつては大きな高札場も立っていたり、
太田川を行き交う水運(人、モノ)の利から
城下の中心として賑わっていました。

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元安橋から見る原爆ドーム。
ドームと街道とは目と鼻の先の位置です。

街道は平和公園の中を抜け己斐橋を渡ります。
己斐橋は太田川の本流に架かる橋です。

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やがて今回のゴール西広島駅。
広電に乗って帰路につきました。


  
posted by にゃおすけ at 19:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 西国街道(山陽道) | 更新情報をチェックする
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