伊勢参宮街道の追分から勢田川沿いに河崎町を経て
夫婦岩の二見興玉神社へと続く道です。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
今回は逆方向の夫婦岩からスタートしました。
二見浦は伊勢神宮を参る前に参拝することで
身を清められるというのが江戸時代の通説でした。
陸路だけでなく海路もあったので
ルート自体は複数存在していて複雑なのですが
今回歩いた道筋が最もポピュラーなルートのように思います。
かつての鳥居前には旅籠街が広がっていました。
今も多くの旅館が立ち並んでいるわけですが
その中にある豪華な賓日館は明治20年に建てられたもの。
賓客の休憩・宿泊施設として利用されていました。
館内にあった古地図の展示を見ていると
二見にロープウエイがあったみたいですね。
麓の駅跡は旅館が建てられて跡がないのですが
背後の山頂にはいくつか遺構が残ってるようです。
戦前のわずか10年のみ存在でした。
御福餅本店。
この手前に赤福もあるのですが二見といえば御福餅です。
お盆の上に2個の餅とお茶が手頃な値段で売っていて
昔の歩き旅と同じような感覚で一服できました。

二見への鉄道は現在はJR参宮線しかないですが
かつては神都電車(のちの三重交通)が走っていました。
山田駅(現伊勢市駅)から二見、内宮を結ぶもので
線路跡は二見道とほぼ平行していました。
この広い空間は二見駅の跡。
境界の表示に三重交通というのはあったのですが
それ以外の痕跡はほとんど残っていないようです。
参宮線の二見浦駅に続く街道。
鉄道開通前の地図を見ると駅100m手前で折れています。
ちょうど上の写真のあたりで駅方向に鳥居が見えます。
なぜ折れているかは不明ですが
少なくとも駅は元々あった街道と接続する形で
駅から街道までの100mが新たに整備されたことがわかります。

明治の地図 (提供・国土地理院)
また駅周辺の道筋は現在と微妙に違っています。
たとえば鉄道開通前は駅構内を横切っていました。
この道筋は今も痕跡として残っていて
ルート変更後は畑のあぜ道として使っていたようです。
三津の集落。
舟で二見浦に行く人の港があった集落で
船着き場の道と交差する場所に高札場がありました。
振り返ると安土城が見えました。
日光江戸村のようなテーマパークです。
五十鈴川を渡ります。
広々とした川筋は実は約500年前の地震の機に出来たもので
元々の本流は二見浦のほうに流れる川筋だったようです。
汐合橋は昭和11年のもの。
元は国道だったので古くても立派なものです。
この橋が架かるまであったのが明治時代の木橋です。

当時の絵葉書 (提供・土木学会附属土木図書館)
木橋の隣には神都電車が走っていて
しっかりした橋台が今も残っています。
反対側から
対岸には道標が立っていますが
おそらく立ち位置は昔のままなのでしょう。
すぐ 二見道
すぐ 宮川道
通町交差点を過ぎて、
大きな小学校の横を進みます。
ここは神都電車の学校前駅の跡。
広くなっているのは駅の敷地だった所以で
当時のものと思われる枕木が積まれてました。
旧道に入って二軒茶屋へ。
ここは三河などからの舟の港。
2軒の茶屋があって賑わっていたといいます。
名物は二軒茶屋餅。
なんと天正年間の創業です。
戦国時代ですよ、戦国時代。

その餅を先ほどの御福餅と同様に
店内で手軽に美味しく頂くことができました。
ただ、昔は黒砂糖が使われていたそうで
厳密にいうと少し風味が違っているようです。
昔の味を味わいたい方は25日に行ってみてください。
「くろあん二軒茶屋餅」として限定販売されています。
河崎町に入ってきました。
先ほどの二軒茶屋港は人用の港でしたが
河崎町は荷物用の港として賑わっていました。
河崎の港と山田(外宮の門前町)までは
道幅の広い道筋が整備されていたので
分間延絵図では貨物道のほうが太く描かれ、
どっちが二見道の本道かわかりにくくなっています。

伊勢路分間延絵図より (提供・東京国立博物館)
河崎町は古い家が多く残っています。
宇治山田市中心部は空襲にあったので
古い家並みはほとんどないのが寂しいところですが
戦災を免れた河崎町は昔の伊勢を知る上で実に貴重です。
河崎町を勢田川沿いに進んでいきます。
三重県のマップではずっと川沿いルートなのですが
古地図では途中から川から離れて進んでいます。
どちらも江戸道で間違いはなさそうですが
川筋は元々湿地だった影響で道に適していなかったので
江戸中期までは地盤の良いところを迂回する形で進んでいたようです。
川沿いの道はそれから後の話で江戸後期になってから。
治水技術が発達したことが大いに関係があるようです。
この件については以下の考察をしています。
・江戸中期の地図(1772)線が細いが途中まで川沿いを進む部分あり。
・伊勢路見取絵図(1806)線が細いが途中まで川沿いを進む部分あり。
・江戸後期の地図 太くはないが川沿いの道があり。
・三重県の街道マップ 川沿いの道があり。
・河崎にある川沿いの道標(1853)#北すぐ外宮山田内宮
・簀子橋(伊勢街道との追分手前)の道標(1847)二見道
上記の資料で1847年ごろに川沿いの道が整備された可能性。
1853年の道標
また以下の資料の中ほどの地図に宇治道の記述があります。
http://park19.wakwak.com/~wadakouko/isefunae.pdf
宇治は内宮のことなので街道名は当資料を作った人が命名したにしても
神宮関係の道筋だからということで命名されたものと思います。
伊勢参宮街道との追分の小田橋付近ですが
伊勢路分間延絵図では道筋はわかりづらいものの、
1662年の山田惣絵図には追分がしっかり描かれているので
江戸初期においても何かしらの道が存在していたようです。
http://blog.goo.ne.jp/odanohashi/e/744c03c19565ec14fc9861a43df13b6a
この草道が旧道の痕跡
二見街道入口交差点、簀子橋を経て
小田橋で伊勢参宮街道と合流してゴールとなります。
ここには古い道標が立っています。
元々は簀子橋にあったもので立派なものです。
すぐ二見の文字が見えます。
二見道の感想としましては
道中には昔ながらの茶屋が2ヵ所あったり、
鉄道の遺構や古い町並みがあったりと短いながらも
中身がかなり充実している街道だなと思いました。
こういう道は歩いていて本当に楽しいので、
街道初心者の方に是非ともお勧めしたい道です。
当日の様子(twetterのまとめ)
http://togetter.com/li/946822