梅雨の蒸し暑い道中となりました。

↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

橋本宿の朝。
国道には車が少なく静かです。
付近の紀ノ川は実に雄大な流れですが
県境に向けて徐々に川幅が狭くなっていきます。

橋本宿の東の外れには
枡形の跡のような道筋が残っています。
道標には
左 こうや こかわ き三井寺 わか山
右 いせ 山上 よしの なら はせ たへま
さすがは信仰の道だけあって寺の名前が多いですね。
山上とは大峰山、たへまとは当麻寺、はせとは長谷寺のこと。

注目すべき点としては
和歌山城から来て初めて見る「なら」の文字。
本来この道は奈良への近道なはずですが
なぜここまで刻まれてこなかったのか不思議です。
・当たり前すぎて書かれてなかったのか。
・和歌山→奈良へは別ルートが一般的だったのか。
このどちらかと思いますが
実際のところはどうだったのでしょう。

県境が近くなってくると
若干のアップダウンが出てきます。
川幅が狭まり、丘を縫うような道筋です。
そんな中、鬱蒼とした場所がありました。
その名も闇峠(くらがりとうげ)。


峠がピークと思いきや、
一旦下って、一気にまた登るという
凸凹した感じの峠になっていました。
名前から少し気味が悪い感じですが
周辺には墓があったり、宿場の郊外に位置することから
もしかすると刑場だったのでは?と考えてしまいます。


かつての下兵庫の駅付近は
木賃宿がずらーと並んでいました。
橋本宿の正規の宿は高くて泊まれなかった人には
大変重宝された場所だったといいます。


白壁が続く旧道風情。
国道から一つ入っただけなのにとても静かです。
次の真土峠は万葉集にも出てくるのですが
当時の道筋は紀ノ川寄りに進んでいたようで
江戸時代のルートとは少し変わっています。


旧真土峠からの眺め。
車を通らせるために掘り下げられているので
国道から伸びるスロープ状の坂で旧峠まで登ります。


県境(国境)には川が流れています。
付近の風情にかつての国境の雰囲気が残ります。
国境を越えてからもアップダウンが続きます。
長閑な田園光景が広がり平坦になると大和二見の集落です。




踏切の名前は伊勢街道。
マップや標識類は大和街道と案内しているのが多いですが
現地で話をしていると伊勢街道という声をよく耳にします。


さぁ、五條です。
重伝地区に指定されているので
雰囲気ある家並みが続いています。
五條の由来は
街道が5本交わっていることからと、
川が5本交わっているからなど説がありますが
少なくとも京都の五条のような意味ではないようです。


五新線のコンクリート高架橋。
新宮とを結ぶ鉄道を建設していたのですが
途中でとん挫してしまっています。
最近までは一部の高架橋を利用しての
バスも走っていたのですがそれも廃止されてしまいました。



まるで時が止まっているかのような町並み。
昭和チックな餅屋さんがあったり、
民家では一番古い歴史をもつ建物があったりと
五條はなかなか見どころがあります。



本陣交差点手前にあった道標。
右 いせ 大峰山上、よしの
左 かうや わか山 四国 くまの
ここは十津川方面への分かれ場所でもあります。


この先で紀ノ川と一旦分かれて
街道は山側へと進路をとっていきます。
なぜ、このような道筋になったのか。
おそらくは、この先の紀ノ川は峡谷になっているのと、
奈良方面への分岐の関係かなと思ったりします。


ここで奈良方面への中街道と分かれます。
伊勢南街道はこの先に宇野峠が待ち構えています。
難所といっても今は掘り下げてしまっているので
かつてほどの険しさはないようです。




峠を下ると再び紀ノ川が寄り添ってきます。
川の名前は紀ノ川から吉野川に変わっています。
断崖絶壁のような道筋を進むと下市口の町。
大峰山への入口にあたります。


吉野らしく木材の集積場があったりと、
狭い平地を上手く利用して町並みが作られています。



六田駅はかつての吉野駅。
現在の吉野駅まで電車が通るまでは
ここから渡し舟と徒歩で向かっていました。



柳と大きな常夜灯が印象的な「柳の渡し」
常夜灯は道標も兼ねていて
「よしの」の文字が刻まれています。
この付近の川の流れは実に緩やかで
渡し場が他にも2カ所ほど存在していました。


国道沿いを進んでいくと上市が近づいてきました。
夏場は川でバーベキューをする人が多いですが
まだ梅雨が明けていないので静かな河原でした。



上市の旧道には立派な家が残ります。
次は最大難所の高見山の区間です。
1泊2日の行程で歩いていきます。
【カテゴリ:伊勢への街道の関連記事】