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雨がパラつく市振宿。
ひっそりとした雰囲気ですが
かつては国境の町でした。


中ほどにある関所の跡には
大きな木と広大な敷地に面影が残ります。

”海道の松”
かなりの大きさでひときわ目立つ存在です。
江戸時代は海道の松から先は
海岸の砂浜へ降りて波打ち際を進んでいました。

現在の海岸沿いはこんな感じ。
この付近は比較的砂浜が残ってる感じですが
浸食によって一部通行不能になってしまっています。
ちなみに40年ほど前までは歩いていけたそうです。


そういうことで国道で迂回して進みました。
が!迂回といえども国道には大型車が多く、
しかも、歩道がないので恐る恐る進むほかありません。
おまけに薄暗い洞門になってるので怖さも倍増です。
これでも歩いた日がお盆だったので
大型車の交通量が少な目なのかもしれませんが
どちらにしても2度と歩きたくない区間です。


このように親不知は昔も今の時代も
北国街道随一の難所といった感じなのですが
う回路として「上路」といわれる山側への道が存在していました。
境宿より川沿いを上っていって青海宿の手前で合流する道ですが
距離は長いし山は険しいわで相当大変な区間だったようです。
明治天皇の1度目の北陸行幸では安全を考え上路を経由されています。

親不知の中でも最も険しい場所は「天険」です。
現在の国道ルートは明治時代に出来たものですが
近年の道路改良でトンネルやショートカットが増えて、
以前に比べると随分と通りやすくなってきています。

如砥如矢(とのごとく、やのごとし)と刻まれているのは
砥石のように滑らかに矢のように速く通れるという意味で
完成したときの喜びが伝わってくるかのようです。
工事は相当大変だったようですが
明治天皇の2回目の北陸行幸に間に合いました。

休憩所にあった親不知のジオラマを見てみましょう。
江戸時代は砂浜の上を進んでいて
荒波は所々に見える岩の隙間に入って回避していました。
まさに命がけだったことがわかります。
参勤交代では波除け人足(500〜700人規模)を雇って
波打ち際に立たせて比較的安全を保ったようですが
加賀の殿様とて命がけには変わりはなかったそうです。

天険からの展望。
よくもまあこういう場所を街道を通したものだと感心します。
ここは北アルプス飛騨山脈の北側の出口。凄い地形です。

ちなみに旧北陸本線のルートは
国道と海の間をへばりつく形で通っていました。
嵐の時の乗客はどんな気持ちで乗っていたのでしょうか。


いくつもの洞門を抜けると外波宿が見えてきました。
親不知はここを境にして子不知になります。
外波宿の近くに歌宿がありますが、
2つで1つの宿場機能を持つ合宿になっていて、
決まった日にちごとに分担していました。



ここに来て晴れてきたので
洞門の隙間から綺麗な海が見えてきました。
次の宿場は青海宿。



ここまで旧道が殆ど残っていなかったのですが
この先しばらくは旧道をのんびり進みます。
アップダウンがあったり
名残の松があったりと良い風情です。


次の糸魚川宿の手前には姫川があります。
翡翠(ひすい)が取れることで有名で
この日も採取してる人を見かけました。



姫川橋は中ほどでトラスとコンクリ橋と造りが違っています。
おそらく増水によって橋が流された影響なのでしょう。
やがて姫川港を過ぎると糸魚川宿に入ります。



ここが有名な千国街道(塩の道)との分岐点。
姫川沿いに松本へと伸びている街道です。
道路元標が角に設置されていました。



雪国に多い雁木造りの家々。
いわゆる雪国アーケードですが
特に新潟県内で多く見かけることができます。
このアーケードは雪を防ぐだけの意味意外にも
風や雨、日差しまでも防ぐことができる代物。
雪国の知恵はオールマイティですね。

糸魚川宿の本陣跡は酒屋さんです(試飲Ok)。
店先には参勤交代資料の展示もありました。
本陣の先には枡形が残り
右手には北陸新幹線の駅があります。
それにしても立派な駅になったものです。



旧道が続きます。
梶屋敷宿の横を流れる早川は
芭蕉が着物を濡らしたという話があります。
当時は川を歩いて渡っていたので
足を滑らせてしまったみたいです。


相変わらず交通量が多い中の国道歩き。
浦本駅を過ぎた辺りから自転車道が平行します。
これは旧北陸本線を整備したものです。

一見すると旧道のように見えるので
街道か非常に紛らわしいのですが直江津手前まで続きます。



鬼伏や鬼舞といった変わった地名を過ぎると能生宿。
能生というとテレマークスキーの聖地でもある
シャルマン火打スキー場があリ度々通っていたんですが
歩いて能生までこれたとは実に感慨深いところです。
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