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能生宿の朝。
朝日に照らされた家々は美しいもので
早起きしてよかったと思うひとときです。


宿場の端には白山神社がまつられています。
北陸地方は白山や立山といった山岳信仰が盛んですが
行く先々で関係するものを見かけることができます。
この立派な本殿は室町時代のものでした。


弁天島から能生宿を一望。
島の周りに見られる岩礁の地形は
100万年前の海底火山活動で生まれたもので
能生の独特な景観になっています。


能生漁港はカニ漁で有名です。
全国的な知名度はさほどないように思うのですが
県内では安い!ということで知名度がことのほか高く
スキーの時に通った際は多くの人出で賑わっていました。



夏は海水浴のシーズン。
しばらく街道は海沿いを進んでいきます。
綺麗な砂浜では泳いでる人をあちこちで見ることができました。


その途中にある藤崎は比較的大きな集落で
明治天皇も小休止されています。


藤崎集落の次は筒石集落になるわけですが
かつて国鉄の駅は集落と集落の間に設置されました。
なぜに何もないところに作ったのか。
集落毎に駅を作ってしまうと駅間が短くなりすぎて
北陸本線の速達性が損ってしまうからということで
喧嘩にならないよう真ん中に設置したのが真相のようです。

現在の筒石駅はトンネル駅で有名ですが、
SL時代の筒石駅は元々土砂崩れがあった場所に作られたことから
大雨の際に路盤が流れるなど何度か災害に見舞われています。

こちらが筒石の集落。
三階建ての独特な建物がひしめいています。


他に筒石は「船小屋」があるのが特長的です。
いわば船のガレージみたいなものですが
兵庫県の伊根にも似た雰囲気があります。
それにしても海が綺麗ですね。


旧北陸本線と平行する区間が延々と続きますが
遺構を眺めてると単調な歩きも楽しいものでした。

これはレンガ造りの橋脚の土台です。
造りに重厚さを感じれていいですよね。
この上をSLが走っていたと思うと胸熱です。



名立宿。
本陣は名立寺というお寺でした。



現在の名立は道の駅もあって賑わっていますが
江戸時代は高田地震の影響で壊滅的被害を受けています。
いわゆる名立崩れというもので
裏山が山体崩壊して村を全部飲み込まれてしまっています。

上の写真の鐘は地震から行方不明だったものですが
海から鐘の音が毎日のように聞こえたことから
探したところ奇跡的に見つかったという話があります。



名立宿からは山へと進路を変えていきます。
勾配を登っていくうち名立宿の全景が見えてきました。
崩壊したのは左手に見える山で
ごっそりえぐられているのが確認できます。

草道へと入っていきます。
農地改良によって一部消滅した形ですが
入り口は大したことがないように見えても
奥に入っていくにつれ藪が酷くなっていきます。


夏なので激藪な場所もあったのですが
路盤はしっかりしていたのでなんとか行けたものの
GPSを頼りに歩かないと迷いそうでした。


お堂の右奥が藪の出口
藪の出口で大きなお堂が見えたとき
ホッとしたのが正直な気持ちです。


次の集落までは街道らしい光景が続きます。
抜け道で使う車はない上に人も来ないような場所で
特に乳母嶽神社や明治天皇小休止跡あたりは
時間が止まってるかのような空間でした。


人家が見えるようになってからは
元々は直登だった道を改良した箇所が増えていきます。
これは車が通りやすいようにヘアピンにしたもので
勾配が緩くなった代わりに少し大回りになっています。
直登していたと思われる場所をよーく見てみると
かつての道の痕跡を確認することができました。

明治天皇小休止跡

この九十九おりになってる道筋なんて
昔ながらといった感じですよね。
峠付近ではお地蔵さんがまつられていました。


有間川宿。
静かな漁村といった光景です。
この宿場の前後区間は迂回路を使ったのですが
元々の旧道は探せば残っているらしいですが
相当な藪を覚悟したほうがいいかもしれません。
(道筋は昭和40年代の空中写真でなんとなくわかります)

昔は橋の先の森の中を進んでいたと思われます

迂回には旧北陸本線の線路跡を一部使いました。
長浜宿は駅名でいうところの谷浜駅にあたるのですが
宿の名前が滋賀の長浜宿と一緒になってるので
ちょっとややこしいですよね。


地名に浜と付くほどなので浜自体は相当に広いもので
古くから製塩業が盛んだったということです。

次はいよいよ直江津の町。
長浜宿までの旧北陸本線の線路跡はというと
元々あった街道の横に通した場所が多くて
国道は旧街道部分を拡幅していっています。

対してこの先の区間は現国道が線路跡の上を通していることから
元々の街道の道筋はそのまま残っているのは有り難いところで
この狭い道が北国街道というわけです。


左下の広くなっている場所が郷津駅の跡。
トンネルが開通した際のルート変更で閉鎖になった駅です。
一般的には代替駅が別の場所に設置されるものですが
代替は設置されず付近には民家が全くないので
信号場的な役割が主目的だったのかもしれませんね。
ただ、海水浴場が近いので
夏は賑わっていたものと想像が膨らみます。


その海水浴場の脇を横目に見て進んでいくと
木浦集落から親鸞聖人が舟で上陸した場所に辿りつきます。


ここでようやく海と分かれて内陸部へ。
政庁だった五智国分寺に立つ三重塔は立派なものでした。


名残の松。
この付近では北国街道の名称は
加賀街道と呼ぶのが一般的なようです。
この先の道筋ですが
奥州(新潟)方面へは川を渡っていけば近いのですが
策略で高田城下経由するように大きく迂回させられています。


これはわざわざ城下を経由させることによって
高田城下の発展を期待したというのが大きな理由です。
旅人にとってはいい迷惑な話ですが
高田城下が出来るまでは川には渡しがあって
迂回などせず奥州方面へ行けたのだそうです。

道標にある「今町」とは
現在の直江津(駅付近)のこと。
高田城下が近くなってきました。
雁木造りの特長ある家々が増えてきます。


家々の軒先には風鈴が飾ってあって
なんともいえない良い風情があります。



新潟方面への北国(奥州)街道はここが追分。


「かがみち、おうしゅうみち。」
なかなか立派なものです。
道標はは近くの神社に移設されていました。
次は妙高高原へと歩みを進めていきます。

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