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早朝の鳳商店街。
町はまだ寝静まってるかのような光景です。
父鬼街道という名前自体は比較的新しいもので
明治36年「大阪府誌第四編道路」でルート指定されています。

直進して熊野街道と分かれます。
道中では槇尾山の道標を多く見かけます。
西国三十三カ所四番札所でもある有名な寺なので
数多くの巡礼の人も通っていたのではと思います。


桜が綺麗な道中。
アップダウンが始まりました。
あちこちには溜め池の光景が広がります。
和泉地方は大きな河川が少なく水が不足気味だったので
古くから灌漑対策の溜め池が作られています。


”ちちよに街道”のお店。
この読み方はカワイイですね。
父鬼街道の父鬼は”ちちおに”と読みます。
父鬼は峠を前にした木材集積地で賑わっていました。
地名の由来は地域を治めていた父鬼氏から。
なんとも怖そうな名前ですよね。

信太山の碑。
この付近は信太山と呼ばれる地帯。
右手には自衛隊基地があります。
桜も綺麗ですが菜の花も咲き誇っていて
まさに春真っ盛りといった感じです。


旧道風情あふれる伏屋集落を過ぎると
泉北ニュータウンが現れてきます。
立派な高層マンションが立ち並ぶ町ですが
遺跡が多く残る地域で意外と古い歴史があります。



ニュータウンに残る草道。
大阪のニュータウンの先輩に千里ニュータウンがありますが、
千里は旧村や水田を殆どなくして開発を進めたことでの弊害があった経験から
泉北では旧村や水田は出来るだけそのままにして計画されています。
マンション群から少し離れただけで草道が残る光景は
泉北ニュータウンの特長の一つなのかもしれませんね。



槇尾川。
ここからは川に沿った道筋になっていて
河岸段丘上を進む形で高度をさらにあげていきます。
納花集落を過ぎると最初の難所である国分峠です。



国分峠はその名のとおり、
和泉国の国分寺が近くにあります。
峠に向かっての急坂はかなりのもので
振り返っての眺望はなかなかのものでした。



峠にあった嘉永年間の道標。
右、まきのを。左、大みね山と書いてあります。
峠を下った先にある横山集落は
立派な蔵のある旧道風景が広がっていました。



ふと、左下に流れる槇尾川に目を向けると
かなりの峡谷具合になってきています。
そして水の流れもまた綺麗。
この先で街道は槇尾山への道筋と分かれ、
父鬼、七越峠方面へと向かっていきます。


一般的に父鬼街道というと鍋谷峠を通るルートですが
江戸時代の鍋谷峠はというとただの山道だったようで、
数々の古地図や絵図を調べても記載がありません。
さらに鍋谷峠の区間の国道には
明治以前の道標を見かけることがないので
鍋谷峠は明治時代に切り開かれた道なのではと思います。



「五畿内志」によると
「七越峠紀州伊都郡界曲路七盤方ニ山頂ニ達ス」
「父鬼納花ナドヲ経テ」
古い文献でもこの通り。
七越峠とあり鍋谷峠とは書かれていません。


父鬼に辿り着きました。
比較的大きな集落です。
横を流れる槇尾川には”乳滝”があります。
古くは父滝と呼ばれていた時期もあったそうです。
いつの頃からか乳がよく出るよう女性が祈願して
鯉を滝の淵へと放すという風習が流行ってからは
”乳”滝と呼ばれるようになったのだとか。


父鬼を過ぎると鍋谷峠方面の国道と分かれます。
国道と分かれた少し先には古い道標がありました。

「左 かうや ほりこし」
高野山と七越峠の先にある堀越観音のことでしょう。


立派な石積みと九十九折の坂道が続きます。
道幅は比較的広く、掘割状になってるのが特長です。
こういう特長はただの登山道でないことを示していて
かつて多くの人が通った街道だったことがわかります。



古い丁石。
七越峠を経由して槇尾山へのものでしょうか。
先ほどの道標の類もそうですが普通の登山道にはないものです。
登山道のような道を登っていくと七越峠。
ここには昭和のはじめまで茶屋があったそうです。


峠にあるお地蔵さんは道標になっています。
左、さいこくみち。右、まきおさん。
ここから先は粉河寺と槇尾山を結ぶ
西国巡礼道の道筋に沿って下っていきます。


少し下った先にあった道標には
鍋谷峠方面の表示に”やまみち”とありました。
これは鍋谷峠の道を指しているのか
尾根沿いを進む道を指しているのかはわかりませんが
少なくとも現地の人しか使わないルートだったと思われます。


巡礼道らしく丁石が点在しています。
やがて視界が広がってきました。
定福寺では新しいトイレの設置工事の真っ最中でした。
久しぶりに見る建物だったのでなんだかホッとしました。


下り坂は急な箇所がありますが
登山道のような感じではなく歩きやすい道です。
所々で崩落したことがあったのでしょう。
復旧工事が行われた箇所がありました。


福徳寺付近からは眼下に鍋谷峠からの国道が見えています。
かつては寺から一気に国道に下りる形だったようですが
現在は斜面の工事などで通行困難になってしまっています。


国道と合流するとなだらかな道になってきました。
桃の花があちこちに。
あとはゴールまで一本道です。


古い道標には”かうや”の文字を見てとれます。
ここが高野山方面への分岐点だったのでしょう。

もう1つの道標は珍しく”手”が彫られたタイプ。
このタイプは明治後期から大正に多く見かけるのですが
江戸期のものだとするとレアな部類です。


橋の名前に残る「さいこくばし」
西国巡礼道である証拠ですね。
和歌山県側のこの地域は紀ノ川の水流から高台になるので
立派な用水が明治期に引かれています。

「小田井用水」
川を跨ぐ立派な水路橋。
明治のものなので造りに見応えがあります。


やがて大和街道(伊勢南街道)との追分でゴール。
最寄りの西笠田駅は徒歩5分のところにありました。
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