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田中宿は千曲川氾濫や大火などを乗り越えてきたのですが
昔の面影は近年の道路改修によって少なくなっています。
この本陣の門は唯一と言ってもいい遺構です。


電線が地中化されているのはいいですね。
上の写真の行灯も風情があっていいものです。
一見は普通の町並みなので
こういう宿場だったよ!的なものがないと
宿場だった過去を知らない人も多いのではと思います。

石造仁王像。
地元出身の力士「雷電」の母親が薬師堂に奉納したもので
当初は左のみ設置して右は大関に出世した後に作られています。
この先の街道沿いには雷電の碑があるのですが
削って持ち帰ると強くなるという変わった迷信があったので
削りに削られ元の文字がわからなくなっている始末です。


中山道でよく見かけた出桁造の家。
この辺りから所々で見かけることができました。
だらだらした上り坂とアップダウンある道も
どこか木曽路を思い起こさせるものがありました。



長野県といえば双体道祖神。
関西にもありますが大きさが全然違います。
この先の道中では何本もの川を横切っていきます。
浅間山に近づくにつれ川の浸食が激しくなっているのが特長的で
谷を避けるために山側に迂回しているケースが多くなっていきます。


迂回する分は距離が長くなるのですが
上り下りの辛さと危険さを考えると大したことはありません。

この大石沢川を渡る場所も迂回していたわけですが
明治期に谷は石積みで嵩上げされ一直線の道で解消されています。
写真は元々の旧道からの眺めですが
なんとも立派な石積みとトンネルですよね。

芝生田集落。
火の見櫓はこの先でも集落ごとに見かけることができまし。


こういう北国街道の案内看板はうれしいですね。
次なる川も浸食が激しい深沢川です。

V字の谷になっていて水量はわずかでした。
橋を渡って左手に旧道を確認することができます。


かつて多くの人が歩いていたであろう緩やかな坂。
下った先の川のほとりには古い石仏がありました。
旧道であった証ですね。


浅間山が見えてきました。
ここまで上りだった道筋は小諸宿に向かって下っていきます。
花川の桜並木は7分咲きで見頃はまだまだ。
満開だった上田と違って標高の違いを感じます。


布引観音道標。
布引観音は行基創建という天台宗布引山釈尊寺で
「牛にひかれて善光寺」の舞台となった寺です。
追分には栃木川の橋が架かりますが
ここも浸食が激しいので上流に少し迂回していたようです。



小諸宿の入り口は青木諏訪神社付近。
ここには桝形がありました。
中沢川の河岸段丘上へと進んでいくわけですが
1742年に中沢川の土石流(戌の満水)で大きな被害を受けています。


上の写真は現在の中沢川の様子ですが
かなりの浸食具合で右手にある小諸城は天然の要害であることがわかります。
水害までは斜めに柳町へと抜ける道筋になっていたのですが
崩壊してしまったので現在のルートに付け替えた経緯があります。

小諸宿本陣。かなり立派な建物です。
駅近くには本陣主屋が保存されています。

小諸宿は小諸城を中心とする城下町で
宿場の機能が加わってからは商業も目覚ましく発展していきます。
東信濃随一の経済圏の中心地で特に醸造業は最先端なものでした。


小諸城跡にある懐古園を見学。
桜の名所になっています。
桜越しに見る浅間山はなかなかいいものです。


小諸宿本陣を過ぎると桝形のような道筋に入りますが
これは鍋蓋曲輪があった影響です。
宿場のメインストリートには古い建物が並び
小諸の見どころは懐古園だけでないことを思い知らされます。



往時の産業の名残り。
これは鏝絵(こてえ)のようなものですね。
光岳寺の山門は元は小諸城の足柄門だったそうです。



ここは城下への出入り口になっていた場所で木戸がありました。
足元は現在は暗渠になってますが蛇堀川が流れています。

蛇堀川は浅間山から流れているものですが
1108年8月30日にあった火砕流においては
川を下って小諸市加増まで達したといいます。
現在の国道18号まであと100メートルの地点です。


唐松一里塚。
一般的に街道は塚と塚の真ん中を進むわけですが
この一里塚もパッと見はそのように見えます。
ところが、旧道はこの塚の横をかすめる形で進んでいます。
一方、塚と塚の間を通る道はというと新道にあたるのです。
新道といっても江戸時代の道にはなるのですが
道を通す為に元々あった1つの塚を2つに分割したので
今に見るような形態になったという話です。


乙女坂を過ぎると佐久甲州道との追分です。
右に進むと甲州街道の韮崎宿へと向います。

乙女という変わった地名の由来ですが
場所が高台なので遠くまで見える「大遠見」からという説や
泉を見つけた「乙女」という少女がいたからという説、
ここが小諸藩の「御留め場」であったからという説があります。



浅間山が大きく見えるようになってきました。
勾配をぐんぐん上っていきます。
十石坂には旧道が残っています。
周囲は綿矢川の田切地形になっていて
なかなかダイナミックなものがあります。


対岸の山壁には穴がいくつも見えますが
古墳ではなくて戦時中に作られた軍事用貯蔵庫なのだそうです。
田中宿をスタートして標高を400mもあげてきました。
ここは850mで最終的には1000m近くまで上っていきますが
この辺りになると桜はまだまだ。肌寒い気温でした。


馬瀬口の明治天皇小休止聖跡。
馬瀬口とは柵口とも呼んで読み方は「ませぐち」。
放牧場の馬の柵のことで古くから馬の飼育で発展してきました。
鉄分の酸化で常に濁っている濁川を過ぎると
小諸藩と幕領の境目になります。



この境目付近は追分原といわれいる場所で
浅間山の火山噴出物が厚く堆積しています。
いわゆる火砕流の跡です。

やがて分去れ(中山道との追分)が見えてきました。
立派な常夜灯に石仏に。素晴らしい追分風情です。



追分宿入り口にあった「つがるや」の鏝絵は
「〼形」の文字が刻まれています。
これは建物の前にあった桝形からきているもので
一般的な桝形とは違って四角に囲った珍しい道筋でした。

追分宿本陣前。
これにて北国街道完歩としました。
まとめはおいおい書いていこうと思います。
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