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元は宿場だったという近露王子付近。
広々とした平地が広がっています。
ずっと山道が続いていたので新鮮な気分です。

集落の出口にある楠山坂は地道でした。
ぐんぐん登っていくと尾根に出ます。

遠くを眺めると通称「乙女の寝顔」が見えてきます。
古道からは上を向いてる顔の部分しか確認できないのですが
場所によっては女性が横たわるように見えるそうです。


比曽原王子跡。
王子跡には古い碑が立っている場合があるのですが
これらは紀州藩が熊野詣の顕彰を後世に伝える意味で設置しています。
江戸時代においても碑を作ることはあったことですが
一般的には災害があったよ!開墾したよ!的なものだったりするので
このような○○跡という碑は珍しいかもしれませんね。

継桜王子付近。
茶屋があり名水もあって見どころが多い場所です。
継桜いわれの秀衛桜は藤原秀衡にちなむ伝説があります。
ひと際目を引く巨木群は社地を囲む圧巻なもので
中には樹齢800年以上のものもあります。

それら巨木は一方杉と呼ばれているのですが
どの木も南東方向の那智山の方角に枝を伸ばしています。
一見すると霊的な何かで不思議なものですが
実際は日照や地形の関係でそうなっているのだそうです。


継桜王子を出ると山深くなっていきます。
峠の連続でバス道は別ルートになっているので逃げ場がありません。
途中でのリタイヤは難しく綿密な計画を立てていきたい区間です。
そんな中、目を楽しませてくれるのは大なり小なりの滝。
数は結構多いもので前日に雨が降った影響でどれも豪快でした。


小広峠と小広王子跡。
峠は道路工事によって大きく掘り下げられています。
おそらく昔の峠のレベルは左手の坂の上あたりだったのでしょう。
ここにも紀州藩が立てた碑がありましたが
工事の際に上部が欠けてしまっています。


木の根が張って歩きづらい山道。
おそらくは植林の影響なのでしょう。
昔と比べると断然今のほうが歩きにくいのではと思います。
熊野古道は他の街道と比べると
歴史が深いことを実感できることが多いのですが
その一つに不明瞭な部分が多いことがあげられます。

例えば熊瀬川王子跡は存在自体が怪しかったといいます。
そもそも平安時代の後期には既になくなっていたという説ですし、
存在を確定できる資料自体が少ないのは仕方のない話です。
そういう点でいうと江戸時代からの街道は資料が豊富に残っていて、
痕跡自体もよく残っているので有り難いところです。
以上の理由から熊野古道歩きでは推定であることが多いので
ある程度割り切って歩いていく必要があるのかもと思います。

一里塚跡。
碑が立ってなければ危うくスルーしかけたのですが
よく見ると左右こんもりと塚になっているのがわかりました。
昔は山ヒルだらけだったという草鞋峠を過ぎると難所の女坂、男坂に入ります。


女坂には立派な石畳が残っていて雰囲気抜群です。
熊野古道の中辺路の中でも上位クラスの雰囲気でしょう
交通の便が悪いので人通りは少なく苔がつきまくっています。

石畳の苔は非常にやっかいなもので
雨で濡れていると滑りやすくなっちゃうんですよね。
しかも、急坂。滑る条件がそろっています。
昔の人は草鞋という滑り止めを兼ねた靴があったわけですが
今の時代は滑り止めを考えておかないと大変なものです。

次に男坂。
全国には男と女と対になった坂が多くありますが
一般的に男坂のほうが急であることが多くなっています。
でもここは先ほどの女坂に比べると非常に楽でした。
もしかすると傾斜ではなく道幅?距離的なもの?
何かしらの理由があっての命名だったのかもしれませんね。

ちなみに現在(2016年)は男坂の一部区間では
地滑りの危険性があることから迂回が推奨されています。
どうしても進みたい場合は自己責任でお願いします。


岩神王子跡。
平安時代の中辺路において
ここが最も険しい難所とされていました。


川沿いを進みます。
迂回推奨区間なので人が通るのは少ないようなので
道は荒らされることなく良い風情を保っていました。
全体的に木々に囲まれていて日影になっていているので
草が生えずらいというのもあるのでしょう。



おぎん地蔵。
おぎんという京都の女芸者がいたのですが
先にある集落に住む若者に会いにいく途中で
追いはぎにやられて死んでしまったといいます。
その集落というのが「湯川」で
江戸時代には「道湯川」と改称されています。

湯川は山と山に挟まれた開けた場所だったので休憩に適していて
准五体王子である湯川王子は早くから設置されています。


集落の跡の石積みを見回してみると
街道客を相手にしたと思われる茶屋の跡や
狭い土地を工夫して作った田畑の跡を見ることが出来ます。


三越峠。
湯の峰温泉経由の赤木越えの本来の分岐点でもあります。
奥熊野との境でもあったので関所が設けられていたことから
モニュメントとして門が設置されていました。



峠を下ると湯の川集落です。
過疎化で昭和40年代に廃村になっています。
街道を行き交う人が少なくなり林業だけでは成り立たなくなったのが理由で
先ほどの湯川集落も同様の理由があったものと思われます。


付近には立派な石積みが点在している他、
古い廃屋も残っていて家の中には当時のものが散らかっています。
また田畑や空き地だった場所は廃村にする際に植林化をしています。


音無川沿いを進んで船玉神社へ。
ここが現在の赤木越えの分岐点になる場所で
新設された急坂を登って行くと三越峠からの本来の道に合流しています。
猪花王子を過ぎると発心門王子です。


発心門王子は五体王子だっただけに立派な敷地が残っています。
発心門とは聖域への入り口という意味ですが
江戸時代になると赤木越えが一般的だったので寂れてしまってました。
ここからはバスが発着して交通の便が良いので観光客が急増します。
ジーパン姿の人や外国人の人ともすれ違いました。女性も多かったです。


先ほどまでの区間と比べると整備された道が続きます。
昔の雰囲気はほとんどないような場所が多いですが
まるで高速道路が如くスイスイと歩けます。
でも考え方によっては観光客が多く歩いてるということは
往時と同じような通行量を保っている生きた道とも言えます。
先ほどの廃道同然になっている区間とは違い茶屋などがあったりするので
昔の疑似体験が出来るという意味では良いかもしれませんね。



右手の山の尾根道が小辺路でしょうか。
百前森山(三里富士)と果無山脈が目の前に広がります。


伏拝王子跡からの眺めでは
かつては熊野本宮大社(旧社地)が見えたそうです。

三軒茶屋が小辺路との合流点。
立派な道標には左きみい寺、右かうや。と刻まれています。


住宅地の中を通り本宮参拝の直前に身を清める場所だった
祓戸王子跡を過ぎるといよいよ熊野本宮大社です。

祓戸王子とは目と鼻の先に一の鳥居がありますが
江戸時代までの本宮大社は河原(大斎原)にあったので
元々の一の鳥居の場所はもっと先に位置していたと思われます。


現在の熊野本宮大社。
大社内にあった熊野古道は移設時に取り込まれている形ですが
参道の階段横にひっそりと昔の古道が残されています。

急坂な上に石がごろごろして歩きづらいですが
この道筋を通って旧社地(大斎原)へと進んでいたのでしょう。

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