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信楽というとタヌキの焼き物で有名ですよね。
駅では巨大な信楽焼が愛嬌を振りまいていました。
タヌキの置物ばかりのイメージが強いですが、
実は信楽焼全体の一割ぐらいなんだそうです。
信楽の場所は奈良や東海地方との交通路上にあって、
紫香楽宮が設置されたほどの歴史的な場所で
このような場所を通る信楽道は人と物流の重要な道筋でした。
信楽道は信楽地方を拠点に方々へと延びていますが
今回は信楽から東海道の水口に向けて歩いてみました。
信楽には集落がいくつかありますが
中心部というと「長野」と言われる場所で
新宮神社の裏手には旧役場が置かれていました。
新宮神社にある狛犬は信楽焼です。
道中では至るところで焼き物が置かれています。
山手には工房から出す煙が立ち上がっていたり、
登り窯の姿も見ることができます。
長野付近の江戸道は狭い路地を縫うような道筋です。
ルートの選定には歴史資料のほか旧版地図も用いています。
ただ、明治初期のものと後期の地図では随分と様子が違います。
同じ明治時代でも30年ぐらいの差になってしまうので
江戸道をあぶり出すには初期のものが有効です。
「右 弘法大師」と刻まれた天明元年 (1781) の道標。
勅旨付近に真言宗玉桂寺があるのですが
同寺は「勅旨の弘法さん」として信仰を集めていました。
この道標は街道を行く人々の便宜を図ったもので
少し先の場所にも同じような「左 弘法大師」道標が残っています。
勅旨付近では大戸川沿いと山沿いのルートとで悩むところですが
・築堤技術が発達した江戸期においては堤防上を歩いていた記述。
・天保、元禄年間の絵図では川沿いが描かれている。
・玉桂寺への道標が川沿いの道から分岐するよう置かれている。
この3点から川沿いが江戸期の一般的なルートだったと考えられます。
近江國図(元禄年間)
大戸川は暴れ川だったこともあり
氾濫時は山沿いのルートに迂回していたこともあったようです。
また、古道であった旨の歴史街道の案内看板もあることから
江戸期以前はメインだった可能性も否定できません。
今回は堤防上の江戸道を歩きましたが
山沿いのルートも気になりますね。
堤防上の道を進んで行くにつれ
山が次第に両側から迫ってきました。
川に水が多く見えるのは小さなダムがある影響ですが
色が茶褐色なのは信楽の粘土質の土の影響があるのだそうです。
近世の信楽焼搬出ルートとしては
木津川舟運の利用がよく知られていますが
これは和束を通る道筋なので逆方向の街道になります。
この旺盛を極めた舟運も明治23年に草津線が開通すると
メインの輸送ルートは鉄道輸送へとシフトしていきます。
今回の街道では江戸道以外にも明治道が多く残っていますが
草津線貴生川駅まで大量の陶器を運ぶことが出来るように
輸送ルートの変化に対応すべく整備されたものなのでしょう。
近江國図(天保年間)
大戸川を渡ります。
絵図でもここで渡河していたことが描かれています。
大きな立派な橋は昭和30年のもの。
それ以前の橋は昭和28年の水害で流されてしまっています。
雲井駅を過ぎて信楽インター付近へ。
ちょうど街道に平行する形で左にあるのが紫香楽宮跡です。
当初はこの付近が宮跡と思われていたのですが
後の発掘で甲賀寺であることがわかっています。
(宮跡は北約1kmに位置する宮町遺跡)
甲賀寺は大仏を建立する予定があったほどの寺ですが
後に中止になって奈良の東大寺で建立されています。
それにしても涼しい道中です。
信楽は関西でも最も寒い町の一つで
真冬の天気予報ではよく信楽の名前が出てきます。
この日も6月にも関わらず22℃前後の気温で快適でした。
小野谷の国道沿いを進み旧道へと分岐します。
この道は天台宗広徳寺への道筋にもなっているので
途中までは時おり車も通っています。
広徳寺(山上庚申)は最澄が開基した古寺ですが
文禄二年に地元の藤左衛門という男が参籠した折に
真鍮の製法を感得して巨万の富を得たと伝えられています。
このことで金物屋からの信仰を集めることになるのですが
広徳寺への立派な道標類は金物屋の寄進が多いみたいです。
この道標もその一つですね。
信楽道は小野峠に向けて上っていきます。
途中からは車の乗り入れが禁止となっているので
道の状態はアスファルトながらも悪くなっていきます。

小野峠付近は明治になって大きく改良を受けています。
元々の道は沢沿いを進む道筋(赤線)だったものを
勾配を緩和すべく迂回した道筋になりました。
この明治道(国道の旧道)は車が通らなくなってからは
崩落個所が部分的に見られるほど荒廃が進んでいます。
もともと地盤的に脆いところがあったのだと思いますが
江戸時代の道筋も一部を除いて消滅してしまっています。
こういう発見は嬉しいですね。
小野峠から先の貴生川への下り道ですが
江戸時代は牛飼集落へ抜けていたのに対して、
明治時代は山上集落へと変更になっています。
これについては
山上集落への道は江戸時代にもあったと思いますが
あくまでサブ的なルートと考えるのが妥当でしょう。
牛飼集落への道は一部消滅している場所がありますが
なんとか辿ることが可能です。
途中には大きな切通しや茶屋の跡などがあったり、
自然石の古い道標まで残っています。
「しがらき、飯道山」と微かに読むことが出来ます。
飯道山(飯道寺)は湖南の代表的霊山のひとつで
奈良時代にはすでに「飯道神」の記述がある古寺です。
また当山派修験道の中でも枢要の地位を占めていたようで
周辺に山伏が多かったのはその影響だったそうです。
ただ、これだけのお寺も明治維新になると
飯道神社と広大な坊跡を遺して廃寺となってしまいます。
牛飼の集落が見えてきました。
名前がなんとも昔風で良いですね。
滋賀県の街道の特長のひとつに
旧家の屋根に「水」と書かれたものを見かけますが
これは火事を防ぐおまじないのようなものです。
あと、飛び出し坊やも滋賀の名物ですね。
杣街道との合流点である三本柳の手前には
江戸期のものとしては最も高い道標が残っています。
「山上庚申道」「日本/真鍮/祖神」「是ヨリ 三十丁」
ざっと5mはあるような大きさですが
すぐ横には小さな道標も置かれています。
これら2つは元々の場所から移設されてきたものですが
大きな道標は大正8年、昭和58年と移設を繰り返しています。
三本柳の集落。
かつては宿場でもあり賑わっていたようです。
また中心部に飯道寺と山上庚申と書いた道標があるように
双方の寺へ向かう人々の恰好の休憩場でもあったみたいです。
杣川を渡ると近江富士が見えてきました。
途中、近江鉄道の線路を行ったり来たりして
今度は瀬田川を渡って水口集落へと入っていきます。
水口神社付近からは立派な黒松並木が続きます。
神社の前には常夜灯型の道標。
「志加らき道、左 八幡道、右 日野 八日市道」
ここで二股になっていますが
左へ行くと水口城内へと続いていました。
やがて東海道との合流点である水口宿。
その手前に自然石の道標が残っていました。
「右 志からき五り道、左 い加上の七り」
ようするに信楽まで5里ですよ、
伊賀上野まで7里ですよという意味になります。
以上で信楽道を終わります。
→当日の模様はコチラ
第13回 街道歩講 信楽シンポジウム
https://togetter.com/li/1117070