2017年06月08日

【街道シンポジウム】 信楽道・信楽→水口宿

街道シンポジウムの一環で歩いてきました。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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信楽というとタヌキの焼き物で有名ですよね。
駅では巨大な信楽焼が愛嬌を振りまいていました。

タヌキの置物ばかりのイメージが強いですが、
実は信楽焼全体の一割ぐらいなんだそうです。

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信楽の場所は奈良や東海地方との交通路上にあって、
紫香楽宮が設置されたほどの歴史的な場所で
このような場所を通る信楽道は人と物流の重要な道筋でした。

信楽道は信楽地方を拠点に方々へと延びていますが
今回は信楽から東海道の水口に向けて歩いてみました。

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信楽には集落がいくつかありますが
中心部というと「長野」と言われる場所で
新宮神社の裏手には旧役場が置かれていました。

新宮神社にある狛犬は信楽焼です。
道中では至るところで焼き物が置かれています。
山手には工房から出す煙が立ち上がっていたり、
登り窯の姿も見ることができます。

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長野付近の江戸道は狭い路地を縫うような道筋です。

ルートの選定には歴史資料のほか旧版地図も用いています。
ただ、明治初期のものと後期の地図では随分と様子が違います。
同じ明治時代でも30年ぐらいの差になってしまうので
江戸道をあぶり出すには初期のものが有効です。

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「右 弘法大師」と刻まれた天明元年 (1781) の道標。

勅旨付近に真言宗玉桂寺があるのですが
同寺は「勅旨の弘法さん」として信仰を集めていました。

この道標は街道を行く人々の便宜を図ったもので
少し先の場所にも同じような「左 弘法大師」道標が残っています。

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勅旨付近では大戸川沿いと山沿いのルートとで悩むところですが

・築堤技術が発達した江戸期においては堤防上を歩いていた記述。
・天保、元禄年間の絵図では川沿いが描かれている。
・玉桂寺への道標が川沿いの道から分岐するよう置かれている。

この3点から川沿いが江戸期の一般的なルートだったと考えられます。

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近江國図(元禄年間)

大戸川は暴れ川だったこともあり
氾濫時は山沿いのルートに迂回していたこともあったようです。
また、古道であった旨の歴史街道の案内看板もあることから
江戸期以前はメインだった可能性も否定できません。

今回は堤防上の江戸道を歩きましたが
山沿いのルートも気になりますね。

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堤防上の道を進んで行くにつれ
山が次第に両側から迫ってきました。

川に水が多く見えるのは小さなダムがある影響ですが
色が茶褐色なのは信楽の粘土質の土の影響があるのだそうです。

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近世の信楽焼搬出ルートとしては
木津川舟運の利用がよく知られていますが
これは和束を通る道筋なので逆方向の街道になります。

この旺盛を極めた舟運も明治23年に草津線が開通すると
メインの輸送ルートは鉄道輸送へとシフトしていきます。
今回の街道では江戸道以外にも明治道が多く残っていますが
草津線貴生川駅まで大量の陶器を運ぶことが出来るように
輸送ルートの変化に対応すべく整備されたものなのでしょう。

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近江國図(天保年間)

大戸川を渡ります。
絵図でもここで渡河していたことが描かれています。

大きな立派な橋は昭和30年のもの。
それ以前の橋は昭和28年の水害で流されてしまっています。

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雲井駅を過ぎて信楽インター付近へ。
ちょうど街道に平行する形で左にあるのが紫香楽宮跡です。

当初はこの付近が宮跡と思われていたのですが
後の発掘で甲賀寺であることがわかっています。
(宮跡は北約1kmに位置する宮町遺跡)
甲賀寺は大仏を建立する予定があったほどの寺ですが
後に中止になって奈良の東大寺で建立されています。

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それにしても涼しい道中です。
信楽は関西でも最も寒い町の一つで
真冬の天気予報ではよく信楽の名前が出てきます。

この日も6月にも関わらず22℃前後の気温で快適でした。

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小野谷の国道沿いを進み旧道へと分岐します。
この道は天台宗広徳寺への道筋にもなっているので
途中までは時おり車も通っています。

広徳寺(山上庚申)は最澄が開基した古寺ですが
文禄二年に地元の藤左衛門という男が参籠した折に
真鍮の製法を感得して巨万の富を得たと伝えられています。
このことで金物屋からの信仰を集めることになるのですが
広徳寺への立派な道標類は金物屋の寄進が多いみたいです。

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この道標もその一つですね。

信楽道は小野峠に向けて上っていきます。
途中からは車の乗り入れが禁止となっているので
道の状態はアスファルトながらも悪くなっていきます。

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小野峠付近は明治になって大きく改良を受けています。

元々の道は沢沿いを進む道筋(赤線)だったものを
勾配を緩和すべく迂回した道筋になりました。

この明治道(国道の旧道)は車が通らなくなってからは
崩落個所が部分的に見られるほど荒廃が進んでいます。
もともと地盤的に脆いところがあったのだと思いますが
江戸時代の道筋も一部を除いて消滅してしまっています。

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こういう発見は嬉しいですね。

小野峠から先の貴生川への下り道ですが
江戸時代は牛飼集落へ抜けていたのに対して、
明治時代は山上集落へと変更になっています。

これについては
山上集落への道は江戸時代にもあったと思いますが
あくまでサブ的なルートと考えるのが妥当でしょう。

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牛飼集落への道は一部消滅している場所がありますが
なんとか辿ることが可能です。

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途中には大きな切通しや茶屋の跡などがあったり、
自然石の古い道標まで残っています。

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「しがらき、飯道山」と微かに読むことが出来ます。

飯道山(飯道寺)は湖南の代表的霊山のひとつで
奈良時代にはすでに「飯道神」の記述がある古寺です。
また当山派修験道の中でも枢要の地位を占めていたようで
周辺に山伏が多かったのはその影響だったそうです。

ただ、これだけのお寺も明治維新になると
飯道神社と広大な坊跡を遺して廃寺となってしまいます。

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牛飼の集落が見えてきました。
名前がなんとも昔風で良いですね。

滋賀県の街道の特長のひとつに
旧家の屋根に「水」と書かれたものを見かけますが
これは火事を防ぐおまじないのようなものです。

あと、飛び出し坊やも滋賀の名物ですね。

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杣街道との合流点である三本柳の手前には
江戸期のものとしては最も高い道標が残っています。

「山上庚申道」「日本/真鍮/祖神」「是ヨリ 三十丁」

ざっと5mはあるような大きさですが
すぐ横には小さな道標も置かれています。

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これら2つは元々の場所から移設されてきたものですが
大きな道標は大正8年、昭和58年と移設を繰り返しています。

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三本柳の集落。
かつては宿場でもあり賑わっていたようです。

また中心部に飯道寺と山上庚申と書いた道標があるように
双方の寺へ向かう人々の恰好の休憩場でもあったみたいです。

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杣川を渡ると近江富士が見えてきました。

途中、近江鉄道の線路を行ったり来たりして
今度は瀬田川を渡って水口集落へと入っていきます。

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水口神社付近からは立派な黒松並木が続きます。

神社の前には常夜灯型の道標。

「志加らき道、左 八幡道、右 日野 八日市道」

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ここで二股になっていますが
左へ行くと水口城内へと続いていました。

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やがて東海道との合流点である水口宿。
その手前に自然石の道標が残っていました。

「右 志からき五り道、左 い加上の七り」

ようするに信楽まで5里ですよ、
伊賀上野まで7里ですよという意味になります。

以上で信楽道を終わります。

→当日の模様はコチラ

第13回 街道歩講 信楽シンポジウム
https://togetter.com/li/1117070


posted by にゃおすけ at 09:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 街道シンポジウム | 更新情報をチェックする
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