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国分は大和川と奈良街道に面していたので
奈良から大阪湾へ出るための交通の要衝でした。
また剣先船の荷揚げ港でもあったので
問屋が集まり物流の拠点としての繁栄もありました。

今も茅葺きを改良した家が残っているなど
古い立派な家々が軒を連ねています。
国分のいわれである河内国の国分寺は
国府からも近い絶好の場所に位置していました。
河内というと八尾あたりが中心と思われがちですが
大昔はこの辺りが中心だったんですね。

ここで右に折れます。
直進は龍田越え奈良街道で奈良市街へと通じています。
道標に書かれた文字は交通の要衝らしく
当麻、長谷寺、大坂、奈良といった各地の地名が刻まれています。


長尾街道はこれより関屋峠越えを進みます。
古地図には田尻峠越えという別ルートも描かれていますが
江戸時代まで大いに利用されていたのは関屋峠の方で
田尻峠は間道のような道筋だったようです。
田尻峠は明治になって大幅に改良を受けますが
今は国道が通るメインルートになっています。
この早い時期のルート変更があったからこそ
関屋峠は今も往時の風情を楽めるというわけです。

大阪の名物の一つ「ぶどう」
柏原のぶどうは特に有名で道の両側に畑が広がります。
栽培の歴史は古く今から280年前(宝永3年)からで
あの甲州ぶどうは当地の苗木を使って栽培が始まっています。
昭和初期は大阪府は全国で第1位のぶどう産地だったわけですが
台風や高度経済成長の影響などを受けて縮小していきます。
随分と大阪平野の展望が開けてきました。
遠くにはあべのハルカスがくっきり見ることができます。


途中からは藪道へと変化します。
入口は非常にわかりにくい状態だったのですが
今昔マップで明治の道筋と照らし合わせると一目瞭然でした。
藪になっている区間は長くは続かず
ものの10mほどで快適路に変化していきます。

冬場でこの程度の藪だったので
夏場はもう少し酷いかもしれませんが
昔の街道そのものが残っていて良い雰囲気です。
峠の手前には大きな石がゴロゴロ転がっていました。


関屋峠。
標高はそれほど高くないので
勾配は大したことない気軽な峠越えでした。

峠の先には関屋地蔵尊があります。
奈良の初瀬の人が峠の交通安全のため奉納したもので
日を切って祈願する日切地蔵として信仰されてきました。
砂岩製なので風化が酷く痛々しい姿です。


下り道もハイキング道の様相です。
街道は登山道と違って物流の道でもあるので
山の中といえども歩きやすい道なのが基本ですね。
右下に関屋の住宅地が見えてきましたが
旧道はまだまだ続いていきます。


住宅地は大規模に造成されてはいるのですが
旧道は外周道路に沿った形で現存しています。
地域の人々の畑への道としての役割もあるようで
いずれにしても残っていることは嬉しいことです。
道路の高架下にある小川を渡って関屋駅付近へ。



関屋は狭い路地の古い雰囲気が残っています。
名前の由来は関所であったことから。
ちなみに先述の田尻峠の由来は
大和の田畑の開墾地の終わりの場所を意味していてます。
これら2つの地名は
まさに国境を連想する名前ですよね。

右手に二上山や葛城山を見ながら歩いていきます。
かつては山沿いに溜池がいくつもあったようですが
開発によって埋められたものが多いようです。


穴虫付近も良い風情が残っています。
名前の由来は穴に伏す低地ということからで
古くは大坂と呼ばれていたそうです。
街道沿いの古い旧家では年末だったことで
大掃除の光景を見かけることができました。
この時期ならではの街道風情です。


やがて当麻寺駅を過ぎ竹ノ内街道と合流して長尾神社へ。
長尾神社は伊勢神宮へと続く道中であることや
街道の要衝であることから交通安全の神様として
古くから信仰されているそうです。

まとめとして。
長尾街道は大阪平野の市街地の区間と山越えの区間、
そして奈良の長閑な光景の区間の3つの顔を持ちます。
その上で古代道路を踏襲していることから歴史的にも深く、
距離も手ごろなので初心者にも絶好の面白い街道に思います。
隣に平行する竹ノ内街道とともに
もっと有名になってもおかしくない街道です。
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