そのうち越後路は佐渡の金を江戸へと運ぶ道として
五街道に次ぐ重要な役割を果たしていました。

久しぶりに立つ高田城下。
雁木という名の雪国アーケードは圧巻ですね。
北国街道歩きというと
これまで滋賀県の鳥居本から直江津を経由して
長野県は軽井沢の追分宿まで歩いてきました。
北国街道といってもルートの定義は様々で
どれを歩けば完歩となるかは一概にいえません。
今回の高田城下から出雲崎に向かうの道は
便宜上「越後路」としましたが本道とする方もおられます。
それはともかくとして今回の区間は重要な道です。
なにせ幕府の「金」を輸送していたルートですから
道中に御金蔵を設置したりするなど力の入れ方が違います。

ここが今回のスタート地点。
筋違いで北国街道の道筋が分かれています。
手前右は加賀方面。左は越後方面。向こう側は江戸方面。
ここにあった道標は近くの神社に移されています。

雁木は高田城下の旧街道筋を中心に設置されています。
上の雁木マップを見れば街道がどこだったか一目瞭然ですね。
城下での総延長は15kmにもなるそうです。
街道沿いが一番輝いていた時代。
現代は車社会になって交通体系が変わってしまいましたが
街道を歩いていると懐かしい光景が今も残っています。


城下の道筋は所々で曲がっています。
これは他の城下と同様、敵の侵入を遅らせる意味などがあります。
下の写真の直江八幡宮は元々は関川河口の直江津にあったもの。
高田城下整備にあたって当地に遷座してきています。

高田城の整備は街道のルートも大きく変わりました。
江戸時代初期は直江津付近に福島城がありました。
それ以前はというと上杉家で有名な春日山城ですね。
福島城が廃城になったきっかけは
城主曰く夜の波の音が怖いかったという話があるのですが
河口に広がる地なので水はけがよくなかったのが本当のところでしょう。
そんなこんなで移設になっていくのですが
問題点は北国街道を行く人々からの収益が減少してしまうことで
それならばと街道を高田城下まで迂回するルートにしてしまいます。
加賀方面から越後へと直接向いたい人も迂回させられたわけです。


さて、関川を渡れば高田城下の外に出ます。
この地にあったのが「稲田口番所」
城下へ続く街道の各入口に番所が設けられたのですが
特に稲田口は奥州方面の重要な出入口としての役目がありました。
ここ稲田には「高田銭座」というのもありました。
銭座は寛永通寳を始めとする銭貨を鋳造した組織や機関のことで
当時の幕府で全国7か所に存在したうちの一つが高田でした。



ここから先は直江津への幹線道路になっているので交通量が増えますが
途中までは長閑な集落を縫って進んでいます。
しかしながら上越インター付近からは雰囲気がガラッと変わります。



巨大なショッピングセンター群。
各店に出入りする車で道が埋め尽くされています。
この周辺では土地区画整理が行われて
街道は一部を残して消滅してしまっています。
やがて関川の流れと平行して進めば春日新田宿です。
対岸には直江津の町が見えます。



直江津へは江戸初期までは関川に橋が架かっていましたが
先述のように高田城下に迂回させるという意図によって破壊され
ごく限られた人向けの渡し船に変更となってしまいます。
現在の春日新田宿は静かな通りです。
宿場には本陣、旅籠が6軒、角の茶屋、中の茶屋、蔵番などがあって
道の脇には馬に水を飲ませる井戸や馬つなぎ場も造られていました。


馬市の跡。
この地の又左衛門が秋田から馬を買ってきたのが始まりで
春日新田は秋田藩だったことから秋田藩が積極的に保護しています。
スポーツ公園を過ぎると進路を海沿いへと変えていきます。
公園内は区画整理によって道が変わっちゃってますね。



「左 おう志う道」奥州道のこと。
この先でも「奥州」と書かれた道標を見かけます。
今回は宿の関係で黒井駅付近でゴールとしました。
それにしてもこの日は物凄い風でした。
距離のトータル的には大したことではなかったのですが
風が当たると体感温度も下がるしで普段以上に疲れた気がします。
まだこれに雨が混じらなくて本当に助かりました。
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