古くから湯治目的の人々で賑わっていました。
今回は通称”間道”と呼ばれる旧ルートになります。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

神崎津のメイン通りには神社がある幅広の通りで
昔の賑わいを想像させてくれる町並みです。
工場の壁には往時の光景をイメージした絵が描かれていました。
こういうモニュメントはなんともいいですよね。
神崎津の詳細は前回書きましたのでそちらを参照して頂くとして
間道は神崎津の先で本道(新ルート)と分岐していきます。
有馬道その1・神崎津→安倉
http://borabora.seesaa.net/article/459389079.html


今回の間道は旧ルートということもあって
本道と比べ歴史の古さを感じる部分が結構ありました。
秀吉もこの道を使って有馬へ通っていたと思うと
なんとなくロマンがありますね。
全体的に住宅地の中を進んでいく形ですが
意外と全区間に渡って旧道が残っています。
下の道標は安永8年のもので尼崎で最古の道標だそうです。

「左ハ次屋村大辯財天女」
弁財天とは近くにある伊邪那岐神社という説がありますが
この先にある下坂部集落内に常願寺跡の末社に弁財天があり
明治時代に伊邪那岐神社に合祀という記述があるので
道標の弁財天は常願寺を指してるのかもしれませんね。
ただ、そうはいっても移設保存されているので
どの場所に立っていたかなど本当のところよくわかりません。
吹屋村の弁財天とあるので集落が違いますし謎が残ります。


下坂部集落内に入ります。
先ほど記述した常願寺を中心にした寺内町です。
集落内の道筋は屈折していて古い風情を感じます。
集落の周りは堀があったような痕跡が残っていて
いわゆる環濠集落になりますが関西に多い形態ですね。

環濠の痕跡

「右 中山有馬」、「左 尼崎」「左 神崎大坂道」。
集落内にあった古い道標。
中山とは中山寺のことですがこの付近から宝塚にかけては
中山と書かれた道標が非常に多いのが特長です。


近松門左衛門にちなんだ公園に出ました。
園内には池があり水面に反射した木々が美しかったです。
東屋もあって休憩にぴったりでした。
久々知山廣済寺には近松門左衛門の墓があります。
その外れにあった古い道標がこちら。


「右 中山有」、「左 尼崎西」
一瞬なんて書いてあるか??なのですが
有馬の「馬」と西宮の「宮」が地面に埋まっています。
今回の道中ではホント道標が多いです。
身近に触れれる文化財ということもあって
思わずテンションがあがります。


「すぐ あまが崎」、「左 かん崎大坂」。
「右 小者゛ま中山有馬」。
ここで小浜宿の名前が出てきました。
後ほど紹介しますが読み方は「こはま」になります。
やがてJR塚口駅前へと入ってきました。
福知山線が電化してから随分と立ちますが
通勤需要から沿線の開発が一気に進んできました。
この塚口駅前もその一つで巨大なマンションが建ち並びます。


伊丹台地の起伏ある地形

そういう塚口は戦国時代は塚口城の城下町で江戸時代は寺内町でした。
伊丹台地の端ということで立地的によかったのでしょう。
城は町中でありながらも土塁と堀の痕跡が残っています。
この祠がある場所が東門跡になります。

土塁と堀の跡
塚口の寺内町では道はいくつかの筋に分かれています。
どの道が人通りが多かったかというと特定しずらいですが
東門付近にあった道標を見みると真ん中の赤線の道が正解かもしれません。
「右 昆陽中」、「左 西宮」。
中は中山寺で一部隠れてしまっています。


ちなみに手元の資料では青線が街道と書いていました。
たしかに青線沿いには塚口御坊である「正玄寺」がありますし、
防衛上で中心部を通らせない意図を感じるものがあります。


塚口を抜けると新幹線と交差する南野集落までは
かつては広大な田園風景が広がっていたようです。
現在は巨大企業の工場や社宅などが広がっていますが
広大な田園地帯だったからこそ工場の敷地に使え
ここに居を構えたのだと妙に納得してしまいます。

西国街道との交点「昆陽」。
昆陽は古代からあった宿場町で本陣もおかれていました。
平安時代では貴族が好んで昆陽野、昆陽池と歌を詠んでいて
古くから親しまれていた場所だったようです。

角には稲野村と書かれた道路元標があります。
上部が薄っすら色が違うのは「野」より下の部分が
地面の下に埋もれていたからなのだそうです。
稲野村は1940年に合併によって消滅しています。

東天神社の鳥居前を左へ。
今回の街道では道の正面に神社が立って
神社を迂回するような道筋が何か所もあります。
このような道筋は他の街道でも見かけることがあるのですが
短区間にこのような道が連続するのは珍しいですね。

「左 中山 三田」「小濱 有馬」、
「右 大坂 尼ヶ崎」
この道標もなかなかの年代ものです。


昆陽池。
行基の指導によって農業用のため池として作られています。
今は池の真ん中に日本の形をした島があることで有名ですね。
昆陽池の先に中野新田地区がありますが
新田開発で財を成したのでしょうか蔵が立派な家が目立ちます。
中野新田は江戸時代初期に作られたもので
中野、西野、東野の三地区にまたがっています。



素盞鳴神社の鳥居前にあった常夜灯型の道標。
「右 大坂」、「左 小濱」弘化年間のものです。
やがて安倉追分に入ります。
ここで伊丹経由の本道(新道)と合流します。
祠もあって追分風情がたまらんですね。
この付近は姥ヶ茶屋と呼ばれ休憩場所でもあったようです。


「右 大坂ミち」「左 京ミち」
国道176号と交差するあたりにあった自然石の道標です。
街道は中国自動車道の宝塚インター付近を進みます。
外周道路沿いに進みますが意外と痕跡は残っているもので
この右側の膨らみがそれです。

かつて大きな池があったのですが
中国自動車道を作る際に埋め立てられています。
ちょうどこの下の写真付近は池だったみたいですね。
西国街道の瀬川宿からの京伏見街道と合流すると小浜宿です。


小浜宿の東門跡。石積みにかつての雰囲気が残ります。
祠は愛宕さんで火災除けのために祀ってあります。
これは他の宿場でもよくあることですね。
下の小浜宿のマップ見るとなかなかの規模です。
小浜宿は宿場町でもあり寺内町でもあります。
宿場内は他の寺内町と同様に屈曲した道筋になっています


その角々には丁寧に道標が置かれいます。
上の道標は地中に埋まっていたものを偶然発掘したものだとか。
「従是右 崑陽寺行」、「きやうき 尼崎江」。
元禄年間のものです。

小浜宿がんばってますね。
関西では数多くの古い町がありますが
観光開発でいうと寺内町が多いので宿場町は貴重な気がします。
以前、ブラタモリで小浜宿が紹介されていましたが
放送後2か月ほどはフィーバーで凄い人だったそうです。


豪摂寺。小浜御坊とも呼ばれる小浜宿の中心となる寺で
豊臣秀吉が有馬湯治の際に千利休を伴って宿泊しています。
無料の資料館は元は山中家の敷地に建つのですが
敷地内に玉ノ井という井戸があり今も水が湧き出ています。
千利休もこの水を使ったといいます。



いわし坂。北門付近にある坂道です。
小浜の「浜」もそうですが
内陸の場所で「いわし」と名前が付くのは面白いですね。
実は太古の昔はすぐ近くまで海だったという話があって
伊丹台地上に位置する小浜周辺は住むのに好立地だったとか。
街道と街道が交わる場所でもあって大変な賑わいがあり、
宝塚の原点は小浜といっても過言ではありません。


旧和田邸は無料で見学することができます。
邸内には道標が保管されているので是非寄ってみましょう。
弘化年間のもので元は中国自動車の場所にあったそうです。
街道は高台を進んでいきます。
宝塚のマンション群と甲山が見えてきました。


清荒神参道を横切ります。
清荒神は関西で有名な台所の神様で正月はかなりの賑わいです。
町石に「日本第一」と刻まれてることからもわかりますね。
「清荒神霊社 従是八丁」

やがて六甲山の東の端が目の前に見えてくると宝塚です。
昔は何もない場所でしたが鉄道開通によって開発されていきます。

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この近く(北摂の兵庫県側)に住んでる者ですが、植木畑に点在する古民家の風情につられて、古い道と知らずに歩いたことがあります
貴重な風景や家並みの写真を上げてくださって、本当に本当にありがとうございます。
小浜宿はタモリさんが取り上げてくれて、にぎわったのですが、すごいですね
あの番組、首都圏中心ということもあって、
あまり熱心には見てないのですが
有馬道は古い道だけに都会化してしまった場所でも
何か面影があって見つける度に嬉しいものでした。
小浜宿には資料館があり係の人が丁寧に説明して下さり、
ブラタモリで放送した頃は見学者が一気に増えたそうです。
テレビの効果は凄いものがありますね。
関西には他にも街道の見どころが多いですから、
またいろいろ取り上げて欲しいと思います。