池田市、伊丹市、宝塚を経て有馬温泉に至る道です。
大阪に住んでいる自分でも???な街道なのですが
宝塚付近では案内看板類があるほどメジャーな呼び方で
他の地域では有馬道と称することが多いようです。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

西国街道の瀬川追分。
この日の朝は放射冷却の影響でかなり冷えました。
大阪市内と比べると標高があるので霜がおりています。
京伏見街道はここからほぼ一直線に西へと延びています。
ルート自体は慶長10年の国絵図にも描かれるほど古く、
京との交易の他、湯治や寺社の巡礼にも使われています。


住宅街の中を進みます。
ふと、有馬道の案内看板が目につきました。
自治体が作るマップは偽の迂回ルートが書いてたりするものですが
当マップは古絵図の通りの道筋が描かれいて嬉しい限りです。


マップに書かれてある井口堂の道標がこちら。
「右、大坂」とあるように能勢街道との分岐点になっています。
真ん中の自然石も道標になっていて
「右ハ 大坂道」「左ハ 京道」とあります。
井口堂というと池田では知ってる人が多い地名ですが
「井口」とは用水の取り入れ口を意味するもので
「堂」は堰や水門を意味するものを合わせたものです。
てっきりお寺のお堂が由来と思っていたのですが
それはどうも違っていたようですね。


この追分付近にあったのが二子塚古墳。
古墳時代の摂津は海が内陸まで入っていたことから
内陸部で古墳を見かけることができます。
6世紀前半の築造で石室のうち1つは
第2次世界大戦時に防空壕として利用されています。

さらに進むと池田城下への分岐の追分があります。
左が京伏見街道、右が池田経由の能勢街道になるのですが
資料によって池田城下を経由するものがあるんですよね。
ところが、古絵図で確認すると左が正解です。
城下は通らせないほうが防衛上良いわけですが、
距離短絡の意味においても理にかなっています。

追分にはお堂と道標があります。
通称・ニシンジョ道標です。
「右ハ いけだみち」「左ハ ありまみち」。
先ほどの井口堂の道標と様式が同じなので
同時期に作られたと思われます。

この左手のマンション辺りに
一里塚があったそうですが痕跡がありません。
明治初期の地図では辛うじて道筋がわかるのですが
中期の時点で確認困難になってるので仕方ないところですね。

阪急宝塚本線をくぐります。
阪急線って正式名では本線って付くんですね。
宝塚線というのは愛称みたいなものらしいです。
さて、街道沿いは古くからの道らしく
石仏があちこちにあるのは嬉しいところです。


狭い道に入っていくと
通勤の人々がたくさん歩いていました。
ちょうど時間は8時ごろです。
その通勤の人々が向かった先は「ダイハツ」
街道の目の前にドーンと現れます。

道筋は残念ながらこの先で消滅しています。
猪名川を渡って大きく迂回するしかありません。
猪名川大橋を渡ります。
川上からの風で体が冷えます。

猪名川というと毎年夏に花火大会があります。
規模が大きい割にゆったり見れる穴場の花火大会で
行き帰りの交通の便も良いのでよく見にいっています。

下加茂の集落から街道が復活します。
猪名川の水量を考えると渡し舟が存在したと思うのですが
探してもなかなか該当資料が見つかりません。
ここより下流の西国街道でさえ渡河だったことを考えると
もしかすると渡し舟がなかったのかもしれませんが
渡河を前にした茶屋ぐらいはあったことでしょう。


伊丹台地へと上る坂道。
京伏見街道唯一といえる急坂なので
名前があったと思われますが資料不足でわかりません。
この先の街道は伊丹台地上を進んでいくことになります。
加茂の集落で池田城下からの道筋と合流します。


加茂集落の中心部にある阿弥陀寺。
ここに道標が移設されています。
「右 のざと」、「左 にしの宮」

野里というと大阪に住む人だと西淀川と思いがちですが
ここでいう野里は山本野里の場所を指すようです。

やがて追分。
1672年の道標が立っています。
「右ハ 小M道」「左ハ 西宮道」

表示が正確なことから
元からこの場所に立っているのでしょうね。

川西市から宝塚市にかけての大きなマップ。
集落ごとに名前があるのは実にわかりやすい!
この付近から増えてくるのが造園業です。
なぜここまで多いのかですが
台地上で水利が良くなく田を作るに適してなかった?
と、想像できるのですが詳細は不明です。
ただ元禄年間に大阪の天満へ出荷という資料があるように
特に山本辺りは古くからの歴史があるようです。


水利が良くなかったという証拠に
この辺りには今も溜池が多く残っています。

京伏見街道の看板が現れました。
この道を挟んで右側が宝塚市、左側が伊丹市です。
宝塚市内ではこの看板をよく見かけます。


「すく 池田 京 道」
「右 中山 道」
「左 大坂 伊丹 道」。
当街道は巡礼道の側面も併せ持っています。
中山とは西国三十三か所の中山寺のこと。

街道随一の大きな神社が天日神社。
御祭神は天忍穂耳命と火魄命です。
境内には尼崎藩領境石が移設保存されています。
元々はバラで有名な荒牧地区にあったもののようです。



大きな溜池の横を進みます。
かつてはこのような光景が多かったことでしょう。
やがて左手から大坂からの有馬道と合流し小浜宿へ。


この先、宝塚まで歩きましたが
有馬道の項で書いているので割愛させてもらいます。
有馬道その2・神崎津→小浜宿→宝塚
http://borabora.seesaa.net/article/463072215.html
今回は前日になって急遽歩けるようになったのですが
日頃から半日で歩ける道を幾つか準備していたおかげで
歩き装備を準備するぐらいで街道歩きができました。
道中は10km程度のものとなりましたが
京都方面からの利用が多かった街道だけあって
どことなく大阪からの有馬道と違った雰囲気を楽しめました。
次回は宝塚-有馬温泉の道筋を歩きます。
いよいよ有馬道のクライマックスになります。
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