2019年03月06日

京伏見街道(有馬道)・大阪府池田市→宝塚

京伏見街道は京から西国街道を経由して
池田市、伊丹市、宝塚を経て有馬温泉に至る道です。

大阪に住んでいる自分でも???な街道なのですが
宝塚付近では案内看板類があるほどメジャーな呼び方で
他の地域では有馬道と称することが多いようです。


↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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西国街道の瀬川追分。

この日の朝は放射冷却の影響でかなり冷えました。
大阪市内と比べると標高があるので霜がおりています。

京伏見街道はここからほぼ一直線に西へと延びています。
ルート自体は慶長10年の国絵図にも描かれるほど古く、
京との交易の他、湯治や寺社の巡礼にも使われています。

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住宅街の中を進みます。

ふと、有馬道の案内看板が目につきました。
自治体が作るマップは偽の迂回ルートが書いてたりするものですが
当マップは古絵図の通りの道筋が描かれいて嬉しい限りです。

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マップに書かれてある井口堂の道標がこちら。
「右、大坂」とあるように能勢街道との分岐点になっています。

真ん中の自然石も道標になっていて
「右ハ 大坂道」「左ハ 京道」とあります。

井口堂というと池田では知ってる人が多い地名ですが
「井口」とは用水の取り入れ口を意味するもので
「堂」は堰や水門を意味するものを合わせたものです。

てっきりお寺のお堂が由来と思っていたのですが
それはどうも違っていたようですね。

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この追分付近にあったのが二子塚古墳。

古墳時代の摂津は海が内陸まで入っていたことから
内陸部で古墳を見かけることができます。

6世紀前半の築造で石室のうち1つは
第2次世界大戦時に防空壕として利用されています。

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さらに進むと池田城下への分岐の追分があります。
左が京伏見街道、右が池田経由の能勢街道になるのですが
資料によって池田城下を経由するものがあるんですよね。

ところが、古絵図で確認すると左が正解です。
城下は通らせないほうが防衛上良いわけですが、
距離短絡の意味においても理にかなっています。

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追分にはお堂と道標があります。
通称・ニシンジョ道標です。

「右ハ いけだみち」「左ハ ありまみち」。

先ほどの井口堂の道標と様式が同じなので
同時期に作られたと思われます。

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この左手のマンション辺りに
一里塚があったそうですが痕跡がありません。

明治初期の地図では辛うじて道筋がわかるのですが
中期の時点で確認困難になってるので仕方ないところですね。

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阪急宝塚本線をくぐります。

阪急線って正式名では本線って付くんですね。
宝塚線というのは愛称みたいなものらしいです。

さて、街道沿いは古くからの道らしく
石仏があちこちにあるのは嬉しいところです。

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狭い道に入っていくと
通勤の人々がたくさん歩いていました。
ちょうど時間は8時ごろです。

その通勤の人々が向かった先は「ダイハツ」
街道の目の前にドーンと現れます。

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道筋は残念ながらこの先で消滅しています。
猪名川を渡って大きく迂回するしかありません。

猪名川大橋を渡ります。
川上からの風で体が冷えます。

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猪名川というと毎年夏に花火大会があります。
規模が大きい割にゆったり見れる穴場の花火大会で
行き帰りの交通の便も良いのでよく見にいっています。

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下加茂の集落から街道が復活します。

猪名川の水量を考えると渡し舟が存在したと思うのですが
探してもなかなか該当資料が見つかりません。

ここより下流の西国街道でさえ渡河だったことを考えると
もしかすると渡し舟がなかったのかもしれませんが
渡河を前にした茶屋ぐらいはあったことでしょう。

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伊丹台地へと上る坂道。
京伏見街道唯一といえる急坂なので
名前があったと思われますが資料不足でわかりません。

この先の街道は伊丹台地上を進んでいくことになります。
加茂の集落で池田城下からの道筋と合流します。

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加茂集落の中心部にある阿弥陀寺。
ここに道標が移設されています。

「右 のざと」、「左 にしの宮」

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野里というと大阪に住む人だと西淀川と思いがちですが
ここでいう野里は山本野里の場所を指すようです。

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やがて追分。
1672年の道標が立っています。

「右ハ 小M道」「左ハ 西宮道」

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表示が正確なことから
元からこの場所に立っているのでしょうね。

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川西市から宝塚市にかけての大きなマップ。
集落ごとに名前があるのは実にわかりやすい!

この付近から増えてくるのが造園業です。

なぜここまで多いのかですが
台地上で水利が良くなく田を作るに適してなかった?
と、想像できるのですが詳細は不明です。

ただ元禄年間に大阪の天満へ出荷という資料があるように
特に山本辺りは古くからの歴史があるようです。

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水利が良くなかったという証拠に
この辺りには今も溜池が多く残っています。

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京伏見街道の看板が現れました。

この道を挟んで右側が宝塚市、左側が伊丹市です。
宝塚市内ではこの看板をよく見かけます。

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「すく 池田 京 道」
「右 中山 道」
「左 大坂 伊丹 道」。

当街道は巡礼道の側面も併せ持っています。
中山とは西国三十三か所の中山寺のこと。

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街道随一の大きな神社が天日神社。
御祭神は天忍穂耳命と火魄命です。

境内には尼崎藩領境石が移設保存されています。
元々はバラで有名な荒牧地区にあったもののようです。

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大きな溜池の横を進みます。
かつてはこのような光景が多かったことでしょう。

やがて左手から大坂からの有馬道と合流し小浜宿へ。

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この先、宝塚まで歩きましたが
有馬道の項で書いているので割愛させてもらいます。

有馬道その2・神崎津→小浜宿→宝塚
http://borabora.seesaa.net/article/463072215.html

今回は前日になって急遽歩けるようになったのですが
日頃から半日で歩ける道を幾つか準備していたおかげで
歩き装備を準備するぐらいで街道歩きができました。

道中は10km程度のものとなりましたが
京都方面からの利用が多かった街道だけあって
どことなく大阪からの有馬道と違った雰囲気を楽しめました。

次回は宝塚-有馬温泉の道筋を歩きます。
いよいよ有馬道のクライマックスになります。



  
posted by にゃおすけ at 10:02 | Comment(0) | 有馬温泉への街道 | 更新情報をチェックする
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