古くから児島湾の干拓事業によって多くの新田が作られ、
牛窓往来に関するエリアでは沖新田の開発によって
幾重もの道筋が出来て非常に複雑になっています。
ポイントは3つ
・古地図の道筋がどれも一定ではない
・新田開発と倉安川と百間川による治水
・明治初期の東山峠の改良
備前慶長図(1596〜1615)
http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/kyo/M2004092519241341842
用水路を改良して後に倉安川となる川沿いの道と西国街道から分岐の道が描かれる。
備前国九郡絵図(1624-1644・寛永年間)
http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/kyo/M2004092519241441843
西国街道から分岐の道が描かれる。
江戸時代初期前後のこれらの地図を見るとかつての海岸線がよくわかります。
備前慶長図にある川沿いの道が備前国九郡絵図に描かれていない理由は、
実際には存在していたものの都市と都市を結ぶ幹線の役割よりも
集落同士を結ぶ役割が大きかったので省かれたのではと思われます。
備前国(1700・元禄13年)
http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/zoomify/T1-20-1-CT02000018.html
西国街道から分岐の道が大多羅付近は川に沿って描かれている。
備前国絵図 (1705・宝永2年ごろ?)
https://www.u-sacred-heart.ac.jp/library/display_collection/digital_gallaery/Wa291_038_Z3/0986186.html?fbclid=IwAR3Q5fLLa3FlqhBdRA-k3gulCR9phrKM1WgZtNJpFiTzHEh0csSYVsqDtjo
東山峠を越えて倉安川沿いの道と西国街道から分岐の道が描かれている。
備前国絵図 (1715・正徳5年)
http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/kyo/M2014122011311869464
西国街道から分岐の道が大多羅付近は川に沿って描かれている。
沖新田は1691年に完成します。
倉安川は倉安新田の開発を着手した同年(1679)に完成します。
先ほどの地図とは随分と地形が変わっているのがわかります。
1705年の地図で東山峠越えの道が初めて出てきますが、
峠自体は古い時代からあったものと思われます。
ただし峠は非常に険しく大荷物で移動するには難儀だったようで、
1715年の地図に峠道が描かれていないということは
旧来の道が相変わらずメインで使われていたのでしょう。
ちなみに東山峠は明治初期に改良されています。
東山峠道改修碑には
「土質堅牢にして且つあまたの厳石あり、刻開高艱難」とあり、
3か月間、のべ12,400余人で東山峠の掘削工事が行われ
三か所の坂道を一丈余り切り下げたそうです。
備前国絵図 (1765・明和2年)
http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/kyo/M2014122011305269462
西国街道から分岐の道が大多羅付近は川に沿って描かれている。
沖新田東西之図 (1818・文政元年)
http://www.city.okayama.jp/museum/okishinden/map.html
http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/kyo/M2014122012442969695
沖新田の真ん中を突っ切る道に官道の文字。
伊能図(1813ごろ)
https://kochizu.gsi.go.jp/items/438?from=category,10,index-map
東山峠を越えて現在の県道沿いに進む。
備前国 (1838・天保9年)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0303000000_6/0000000294/00
西国街道から分岐の道が大多羅付近は川に沿って描かれている。
江戸中期から幕末にかけての地図を見ると
様々なルートがあり複雑な様相になっています。
新たに西大寺を経由しない短絡ルートも描かれています。
牛窓は重要な拠点ですが西大寺もまた同様で
「西大寺は下津井とともに港町として栄えているので、
おかげで岡山城下町の繁栄が脅かされている」
西大寺は戦国時代に西大寺観音院を中心に家や店が増え、
門前町が形成されて繁栄し有力商人が多数活躍していました。
そういう重要地に寄らずに目的地へ直行することは
用がなければ現代社会でもよくあることです。
特に当時は徒歩ですから距離が短い道を選ぶのは当然でしょう。
ただ、こういう道が完成した以降でも、
不思議と描かれている地図が少ないんですよね。
あの伊能図にも描かれていません。
これはおそらく牛窓へ直行する道は数ある道の一つに過ぎず、
需要的には西大寺経由が高かったのではと思います。
以上、古地図からの考察でしたが
他に「備陽国志」などを含めて考えてまとめてみると
以下のような感じになるのではないでしょうか。
牛窓往来は西大寺を経由する道としない道があり、
岡山城下側においても東山峠や平井や西国街道を経由する道があった。
時代によって複雑でどのルートも牛窓往来と言っても過言ではなく、
強いていうなら西国街道から分岐する道が数多く描かれているので
古来からの牛窓往来と言えるのかもしれません。
11月の月末に街道シンポジウムで歩きますが、
そこでまた何かわかりましたら報告させていただきます。
ちなみにルートは備前国絵図 (1705・宝永2年)で歩く予定です。
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