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筑紫駅周辺の住宅街を通っていきます。
猿田彦さんは福岡県内でよく見かけます。
道中安全の神様ですね。


原田宿の手前に筑紫神社があります。
社殿が立つ筑後国は元は筑前国と合わせて1つの筑紫国でした。
「筑紫」の由来は2国の間にある坂が険しく鞍が擦り切れるため
「鞍尽くし」と呼ばれた説を筆頭に三説あるようです。
神社付近の街道ルートは少し複雑になっています。
筑紫駅側から来ると鳥居のある大きな広場前を通ります。
街道を往来する旅人は牛馬をこの広場に休め置いて、
参道を通って道中安全の祈願をしたそうです。


逆に祈願に興味ない人はスルーしていたと思うのですが
そういう人は上の写真の右手の道を通っていたようですね。
神社入口の大きな鳥居は元禄期のもので立派です。


原田宿内は区画整理が行われて昔の面影がほとんどありません。
この写真付近はかろうじて旧ルート上にあります。
東溝口跡付近には「はらふと餅」の店がありました。
この先にある三国坂や手前にあった冷水峠を越えるため、
腹ごしらえにもってこいの店で繁盛したそうです。
下の絵図を見ると当時の様子がなんとなく見えてきますね。



原田宿絵図の右側にウネウネした道筋があるのがわかります。
この区間が完全消滅になっていてJR跨線橋まで続いています。
享和年間の原田宿の記録によると
人家100軒あまり宿屋や茶屋も多くとあるので
小さくもなく大きくもない規模の宿場だったようです。
旧道を経てJRと平行している国道3号線沿いを進みます。



難所である三国坂の手前にあった国境石。
元々あった場所は国道上にあるマンホールの位置になります。
国境石を建てる前は大きな松の木があったのですが
枯れたので印を設置せねばと議論がはじまったものの
2年近く揉めに揉めたそうです。

国境石の元の場所にはマンホール

三国坂の入口。
草道が続きますが高速道路と交わる辺りで途切れています。
結局は引き返してバイパスの歩道を歩くことになるのですが
バイパス工事となると痕跡すらなくなることが多いですので
少しだけでも維持されているのは嬉しいですね。




けやき台駅の先の白坂で街道は右の森の中へ入っていきます。
線路で分断されているので踏切で迂回しないといけません。
それにしても鹿児島本線は列車の本数が多くて驚きました。
九州新幹線の開業前はもっと凄かったんでしょうが
間違っても”わるにゃん”して線路横断はやめましょう。


白坂の旧道風景。
大きな猿田彦さんがおられました。
やがて基山駅周辺へ。
基山は長崎街道が通過する町として1645年に成立した町で
人家五六十軒あり、東の入口に茶屋あり。商家、酒屋あり。とあり、
宿場ではないものの間の宿的な感じだったのでしょう。


西海製薬の横を進みます。
鳥栖周辺は有名な製薬会社が多いですね。
それもそのはずで領主だった対馬藩は朝鮮と貿易の折に
漢方薬などの知識を豊富に手に入れていたことが一つにあって
領民は薬の製造を副業とする人が次第に増え、行商も増えて、
江戸時代後期には日本四大売薬となっていきます。


今町の集落。
1653年の時点では計30戸の家々があったようです。
鳥栖インターを過ぎて田代宿へ。
入口付近には自然石の道標がありました。
「右 ひこ山道、左 こくら はかた道」


田代宿は対馬藩の代官所が置かれた場所で
江戸後期の記録では人家500、茶屋、宿屋多しとあります。
田代宿のすぐ隣には肥前藩の管轄の轟木宿があります。
宿場が接近しているのは国境であることが一つの理由のようです。


田代代官所跡は田代小学校になっています。
ちなみに代官所が廃藩置県によって廃止になった後も
田代周辺は宗家(旧対馬藩主)が大地主として関わっていきます。
田代宿を歩いていると目にするのはサロンパスの看板です。
工場は街道の道筋を大きく霞めるように立てられています。
街道筋には人家が多く建ち並んでいたことから
何もない場所を選んで立てられたのではと思います。


田代宿の出口にも道標がありました。
「右 さか 左 くるめ道」
東口にもあった同じタイプの自然石の道標です。
1802年以前からのものです。
この日は吉野ヶ里付近まで歩きましたが
長くなったので次回に分けます。