どこを歩くかは毎回悩みのタネなのですが
距離は15km程度で利便性のあるバラエティーな道となると
全国各地を探しても意外とあるようでないものです。
今回の牛窓往来は本来は岡山城下から牛窓までなのですが、
需要の大きかった西大寺までとし短縮して歩きました。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
西大寺は地方屈指の大寺で吉井川の河口に位置していたので
庶民信仰を集め門前町が形成されていました。
現存する三重塔は1675年のもの。
仁王門や本堂など境内の建物は江戸時代のものでどれも立派です。
関西で西大寺というと奈良の西大寺を連想しがちですが
こちらは別名「観音院」と呼ばれ関連はどうもないようです。
そもそも牛窓往来の名前の由来の牛窓とは
古くから海上交通での風待港として栄え、
江戸時代には朝鮮通信使の寄港地で賑わっていました。
瀬戸内には西国街道という陸路もあるにはあるのですが
難所が多いので比較的穏やかな海路を選ばれることが多く、
そのため一定の距離間隔で寄港地がおかれていました。
現代は日本のエーゲ海として若者に人気の場所ですが
詳細についてはまたの機会に書こうと思います。
【追記】日本のエーゲ海!?牛窓の魅力
https://borabora.seesaa.net/article/473000541.html
さて、西大寺の町は観音院の門前町として賑わい、
有力商人が多数活躍する重要な町でした。
今の時代においても町中には古い家があちこちに残ります。
その良さから「三丁目の夕日」など映画撮影も行われています。
牛窓往来は時代のよってルート変化があるのが特長的です。
これは児島湾の干拓などの影響が主たる理由です。
岡山県内では数々の古地図がネット公開されていますが
干拓前と干拓後では道筋が随分と違っています。
ここで詳しく書くと書ききれないので
下のリンクにある拙記事を併せてご覧ください。
岡山から牛窓へ続く街道の考察
https://borabora.seesaa.net/article/471462099.html
ちなみに今回は備前国絵図 (1705年ごろ)を参考にしました。
西大寺から倉安川沿いに進み東山峠を越えるルートです。
吉井川の堤防付近にあった常夜灯。
西大寺から牛窓方面へ向かうにはここで渡し舟に乗るか、
ここから少し北にある河本町からの渡し舟を利用していたと思われます。
ちなみに西大寺を経由しない直行ルートは下流の金岡で渡っていたそうです。
立派な中国銀行の建物を右手に見ながら歩みを進めます。
この手の大きな建物は町の中心にある場合が多いですね。
西川沿いに進みます。
灌漑用に作られた川で吉井川の西側にあるので西川とのこと。
味わいのある千年橋は1917年のもので
この地の繁栄を願って命名されたもののようです。
川沿いを抜け進路を西に向けると
かつての西大寺鉄道のターミナルが見えてきます。
現在は西大寺バスセンターになっていますが
岡山県下を牛耳る両備グループの創業の地でもあります。
西大寺鉄道はここから岡山城下の後楽園まで走っていました。
経営は良かったものの赤穂線開通のため廃止に。
補償交渉は何かと大変だったみたいです。
前後にデッキがある昭和11年製の車両。
デッキには荷物や自転車、乳母車などを載せていたそうです。
街道は大多羅あたりまで廃線跡(自転車道)に沿って進みます。
砂川の堤防が見えてきました。
かつて新橋が架かっていた場所で西大寺の町の出入口です。
新橋を渡ると旧道は2つに分かれるのですが
今回歩く道である倉安川沿いは古来からの道筋である一方、
現在の県道沿いの道筋は伊能図に描かれた由緒ある道です。
赤穂線と横切ります。
このタイプの車両は希少になりましたが岡山ではまだまだ多いです。
その先にあった石橋の橋脚の土台は昔のまま。
橋は下を覗き込んでみると意外な発見があって面白いですね。
倉安川と合流します。
野菜を洗う昔ながらの光景。いいですねー。
倉安川は吉井川と旭川を結ぶ1679年に築かれた人口河川で
元々あった用水路などを繋ぎ合わせて作られています。
南部の干拓地への水路であるとともに高瀬舟の運河でもありました。
南の方角を見ると平地が広がっていますが
児島湾を干拓したもので、かつては大部分が海でした。
遠くには特長的な鷲羽山も見ることができます。
百間川の堤防と正木城跡が見えてきました。
長くなりましたので残り岡山城下までは次回をお楽しみに。