↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

田代宿と轟木宿の中間にある瓜生野の集落。
3と6と9の付く日に市が立てられ賑わっていたそうです。
人家の数は轟木宿より多かったというから驚いたのですが
記録によると商家、酒屋はあるものの茶屋はなしというのがあるので
間の宿でもなく、市で形成された町といった感じなのでしょうか。

秋葉町の白壁の町並みを経て長崎本線をくぐります。
くぐった先の左手には菅原道真の史跡があります。
この近くに菅原道真の子を養子に出した先があったので
我が子に会うためにしばしば訪れていたそうです。


その時に腰を下ろしたのが「腰掛石」で
自分の顔を水に映したのが「姿見池」になります。

橋を渡ります。橋の名前は境橋。
この轟木川を境に東が対馬藩、西が肥前藩になっていました。
川を渡ってすぐの場所が番所跡。
なんとなく国境の宿場の雰囲気がありますね。
轟木宿はなんとも長閑な感じです。
江戸時代の記録では人家140、茶屋、宿や多しとあって
エリア的には鳥栖付近にあたります。


長崎街道の先で九州新幹線と交差しますが
新鳥栖駅とは目と鼻の位置にあります。
鳥栖の歴史は古代は「鳥巣」(とりのす)と呼ばれていました。
様々な鳥を飼育して朝廷に献上していたようです。
こういう経緯から古くから鳥屋が多く、
養鶏が盛んな土地になったということになります。


安良地区。
右手には山城の朝日山があり戦略的な拠点になっていました。
人家40軒茶屋多しという記述があるように間の宿の位置づけで、
轟木宿で宿泊客があふれた場合は安良で分宿もしたようです。
ゴルフ場の中を進みます。
ネットには多くのゴルフボールがひっかかっていました。


村田地区。
村田鍋島家の城下町でもあり
恵比寿様が2体あることから商業の町の一面もあったようですね。
佐賀競馬場を横目に進みます。



太刀洗峠への道。
当時、峠を進む旅人を襲う山賊が出没して襲撃に使った刀を洗っていたので
「太刀洗」と呼ぶようになったと言われています。
案内看板に昔の写真が載せてありました。
昭和40年代の光景ですが圧倒的に交通量が少ないですね。
今は反対側に渡るにも一苦労の交通量なので
なんとものんびりとした雰囲気が伝わってきます。


中原宿入口。
宿場の扱いでしたが轟木宿と神崎宿と挟まれた場所柄
規模は小さかったようで旅籠は6軒ほどでした。
町並み自体は明治に大火があって
ほとんどの家が失われてしまっています。
その中で当時の旅籠だった岡崎屋が現存しています。
二階の手すりには「中原駅岡崎屋御定宿」の文字があり、
透かし彫りでなかなか立派なものです。



中原宿の西の端は旧道(藪道)が残っています。
この区間は発掘調査も行われいて
地面の下から当時の路面や公衆トイレだった甕が発見されています。



今は埋め戻して再び地下に眠っているのですが
他の街道もこうやって発掘すると意外な発見があるかもしれませんね。


やがて、目達原宿という間の宿に入ります。
今も商店が立ち並んでいて賑わってるように見えます。
駅から離れた場所にも関わらずこの賑わいは少し不思議な感覚です。

ふと神社の灯篭を見ると上に何か乗っています。
実はこれ、狛犬なんですよね。なかなか珍しいものだと思います。
自衛隊基地の横を進み吉野ヶ里で今回のゴールとしました。
