2020年06月01日

大阪の運河の痕跡を求めて その1

かつての大阪中心部には淀川の本流が流れ、
水運のために数々の運河が開削されていました。

開削時に出た土砂で盛り立て都市開発を行うと共に、
水路網を生かしての経済、物流が活発となって、
「天下の台所」「大大阪」として発展していきます。

明治以降になると鉄道や車の普及によって、
大部分が埋め立てられ一変してしまうのですが、
探せば意外と痕跡が残っているものです。

1.地名に残るもの

川があってそこで生活してる人がいれば
当然、橋が架けられます。

橋は地域にとって象徴的なものでもあるので
地名となることがあり川がなくなっても残ることがあります。

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出入橋「大阪市街全圖 實地踏測 大正5」

上の古地図は大阪駅南側にある出入橋付近のもの。

明治になり鉄道が開通すると輸送の主役は鉄道になっていきますが
荷物に関しては水運もまだまだ重要な役割を担っていた時期で
大阪駅と大阪中心部を結ぶ目的で運河が作られます。
ちなみに大阪駅は当初の計画では堂島付近に設ける予定でした。

橋の名前は船が「出入り」することから付けられています。
その後、阪神高速を作る際に運河は埋められてしまいますが
今も橋だけ現存で当時の様子を伝えています。



このような地名に残る橋の名前は数多くあります。
他に心斎橋や四ツ橋、長堀橋、桜橋が有名ですね。

下の古地図にある四ツ橋は運河と運河の交差点になっていました。
四隅に架けられた橋は夏場は格好の涼み場であったそうです。

yotubasi.jpg
四ツ橋「大阪市街全圖 實地踏測 大正5」

「浪華の八百八橋」という言葉があります。
「江戸の八百八町」「京都の八百八寺」と同じく実際の数ではなく
それほど数多くの橋が架けられていたという比喩的な表現です。

もちろん江戸にも多くの橋が架けられていたのですが、
大阪の多くの橋は幕府ではなく地元の町人が架けたもので
地元が作り上げた意味もあって橋が強調されていたのでしょう。

このように親しまれた歴史があることで運河がなくなった今でも
橋の名前だけは根強く残っていることは当然なのかもしれません。

その2に続きます。


posted by にゃおすけ at 10:26 | Comment(0) | いろいろ考察 | 更新情報をチェックする
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