2020年06月10日

大阪の運河の痕跡を求めて その2

前回、淀川の本流が大阪中心部に流れていたと書きました。
さらに驚くことに1704年頃までは大和川の本流も流れていたと書くと
一体どのような流路になっていたのか気になりますよね。

その一つの答えが数多くの運河と安治川でしょう。

2.地形に残るもの

淀川の本流は中ノ島を西進していくと
終端で中津川(上流で分かれた淀川の支流)方面と
木津川、尻無川方面の二手に分かれ大阪湾にそそいでいました。

その分かれ目となる場所に九条島という島があり、
川に蓋をする形で遮っていたので流れが悪くなることが多く、
これが原因で水害を引き起こすことがありました。

azikawa.jpg
安治川「大阪市街全圖 實地踏測 大正5」

そこで九条島を左右に分けるように安治川が開削されます。

安治川は洪水を減らすという目的の他に、
大阪湾への水運もルートが短縮されたおかげで活発となり、
大阪の町の発展の原動力の一つとなっていきます。
名前の由来は「安らかに治まるように」と付けられましたが
まさに名前のようになっていったわけです。

安治川が完成した一方で勢いを失ったのは中津川への流路。
次第に埋め立てられ小さな川に変貌していきます。



上の旧逆川の跡がその流れですが、
見て頂くとわかるように道がかつての流れに沿っています。
わざわざ曲線になっているのは何か理由があるものです。

大阪西部地域では人工の運河を埋め立てた事例よりも
旧淀川の流れだったことから河川を埋めた事例が多いように思います。
これは地名を見ても明らかで福島、四貫島、姫島、海老江といった
自然地形による名称が多いことからもわかります。



上のストリートビューは境川運河の痕跡です。

一見すると普通の道路のようですが
異様な盛り上がりがあるのが確認できると思います。

不要になった運河は埋め立てる際は
きちんと土地を平らに出来れば良いのですが
高度経済成長期で開発を急いでいたり何かしら理由があることで
元の河川部分が痕跡として残ることがよくあります。

sakaigawa.jpg
境川「大阪市街全圖 實地踏測 大正5」

このような盛り上がりは
大阪では旧大和川の流路跡がよくわかる事例でしょう。
江戸初期の技術では機械もなく平らにするには困難だったはずで
天井川だったこともあり今も周りと比べ一段高くなっています。
それが何10キロも続いているのだから相当なものです。

最後に大正区の三軒家の巨大堤防道路を紹介します。



大正区は明治の中頃までは河口部の農村という風情でしたが
次第に地の利を生かし紡績業が活発となり工業地帯になっていきます。

当然、水運も活発になっていくわけですが、
今まで以上に多くの舟をさばく広場が必要になってきます。
その広場=船溜まりとして設けられたのが堤防右側の部分。
かつては大きな港が広がっていたことが想像できます。

sangenya.jpg
三軒家「大阪市街全圖 實地踏測 大正5」

ところこの港が活躍していたのはそう長くはありませんでした。
次第に物流が水運から陸運へとシフトしていくと
お役御免となり埋め立てられ工場になっていきます。

おわりに。

昔の大阪の繁栄を今に伝える痕跡は
紹介したもの以外にも数多く残っています。
それほど大阪は水運で商を成していたといえるわけで、
これからも少しずつ事例を紹介していければと思います。


posted by にゃおすけ at 10:18 | Comment(0) | いろいろ考察 | 更新情報をチェックする
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