学生時代は松本電鉄バスでバイトをしていたのですが、
山岳路線を多く抱えていたため安全対策から車掌が必須でした。
車内放送は元より切符の集改札、バスの誘導が主な仕事で
イメージ的にはバスガイドですが実際は大きく違っていました。
まず第一弾として安房峠を紹介します。
長野県と岐阜県の県境にある標高は1,790 mの峠です。
乗務当時はデジカメという記録媒体がなかったので
ストリートビューでの紹介となってしまうことをご容赦下さい。
2012年までは峠の茶屋の建物は残っていたんですね。
安房峠トンネルが1997年に開業したことで峠は一変しますが、
それまでは過酷な道を越えてきての唯一の安らぎといえる場所で
数多くの車やバスが小屋の前に止まっていたのを思い出します。
峠付近から松本側に少し下れば穂高連峰がよく見えました。
さて、安房峠区間でのバス乗務ですが、
上高地と平湯温泉、乗鞍山頂を結ぶ路線がありました。
ストリートビューを見てもらうとわかるように
峠区間はバスの離合が困難な道幅の場所ばかりで、
行楽期になるとバスや車が何台も連なる大渋滞になりました。
それもそのはず安房峠は単なる県境の峠ではなく、
首都圏と富山方面を結ぶ近道という役割もあったんですよね。
観光に関係ない車も多く地域の大動脈だったわけです。
大渋滞になると本来は約1時間の乗務行程のところ、
3倍から5倍の時間がかかることがありました。
乗客には上高地で観光して平湯温泉に泊まる人が多かったですが、
15時のバスに乗れば普通なら16時すぎには宿に着くはずが、
まさかの渋滞で22時になるとは思ってもなかったと思います。
宿の関係者も食事の準備など大変な苦労があったと聞きます。
記憶では、この12号カーブ付近が一番酷かったですね。
車掌は前方を見て対向車を素早く見つける役目がありまして
自社のバス同士なら無線で前もって退避できるのですが、
慣れてないドライバーはどんどん突っ込んできます。
この付近は対向できる場所はかなり限られています。
安房峠はヘアピンカーブに注目されがちですが
本当に問題になっていた場所はこの付近だったのです。
ここで重要な役目を負うのが車掌でした。
渋滞が前方で起きていることを察知すると、
バスの扉を開けてもらい渋滞の先頭へ走っていきます。
いわゆる安房マラソンです。
渋滞の先頭では誘導を行います。
大抵のマイカーの方は不慣れですから
右往左往して止まったまま半ば諦め状態なことが多く、
車掌は対向できる場所を必死に探して誘導することで
渋滞の原因を取り除くことに努力していました。
こういうことがあったので渋滞の時は
車掌はバスにいないことが多かったのですが、
汗だくになってバスに疲弊した姿で戻ってきたのを見て
乗客から拍手やビールをもらったこともありました。
ちょっとした英雄扱い(?)で嬉しいものでした。
車掌の間で話題にしていたのが上の「おばけカーブ」です。
実際におばけが出るからというわけではありません。
単におばけの絵が描いた看板があったからです。
気を付けないと死ぬぞ的なことが書いてあったと思います。
安房峠の旧道はなかなか目印となるものがなく、
無線で現在地を知らせる時はあだ名をつけていました。
ヘアピンカーブだとそれぞれ番号があるのですが
例えばこのカーブだと「おばけ通過」と言ってました。
他に「焼岳が見える場所」という目印もありました。
松電バイトの話はまだまだ尽きませんが
とりあえず今回はここまでとします。
懐かしいです。安房峠を下から上まで、ずっと走ってたこともあります。かまトンネルも故障車が直前にいて、対向車を止めるために洞門まで、全力疾走したことも・・・
僕の頃は、車掌席に座っても、揉めることはなかったです。まあ、座ると眠くなるので、余り使わなかったですけど。
乗鞍ですが、確かに天国かも。でも、晴れてる日は、めったやたらと山が見え、あの山、この山、なんて名前? と山に全く感心がなかった僕には地獄の質問攻め。適当にいってたら、バレて怒られました。 晴れも大変でしたが、雨の日は、リバースのケアが大変でしたよね。天井まで噴かれたことがあります。
僕の頃は、朝一が3:50出勤。いかに出勤時間を遅くするか、運転手と共謀して、お客さんを言いくるめて、途中でお茶してたり・・・ あーなつかし。
昭和57年というと私が乗務していたころと比べて
道路事情がもっと過酷だったことと思います。
貴重なコメントありがとうございます。
3:50出勤は私のときもありました。
「サゴマル」や4:20出は「シニマル」でした。
今を思うと当時よくやれたなと思ったりするのですが、
やれたのは仕事が楽しくやりがいがあったからでしょうね。
運転手と共謀。なつかしすぎます(笑