2020年10月26日

大阪の西の端の街道・尼崎街道その1

大阪と尼崎を結ぶ街道は他にもありますが、
尼崎街道は最も海よりを進む街道です。

かつての大阪の西は旧淀川の河口という場所で、
地盤が悪く島が多いことで渡し等を多用することから、
当街道よりも上流にある街道に人気があったようです。
そういう背景から街道の主な利用層としては、
地域の人々の生活道路だったのではと思われます。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

街道ルートは資料や時代によって違いますが、
今回は起点を大阪兵庫の境にある辰巳橋としました。
ここは尼崎城下の東端にあたり梅田街道と接続する場所で、
大阪側の終点はかつての繁栄の地である川口としました。

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辰巳橋を渡れば佃島です。
佃煮は元々はここの漁師の船内食だったのですが
徳川家康との縁で江戸に一部の漁師が移住することになり、
それから有名になっていきます。

そんな佃島は今は北半分は住宅地、南半分は工業地。
この先にある新淀川まではこのような光景が続きますが
元々は新田開発によって発展していった経緯があるので
昔は広々とした水田が広がっていたものと思われます。

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中島川を渡って中島地区へ。

淀川河口部には島が付く地名が多く、
由来も島だったことから付けられたものが多いですが、
中島に関しては新田開発者の中島市兵衛からで人名になります。

川沿いに進むと五社神社があります。
創建は元禄年間で新田開発の折に勧請されています。

街道は五社神社の敷地を沿うように進むと、
神崎川沿いになり、そこにも大きな鳥居がありました。
銘には文化10年とあり、古い地図で確認してみると、
元々の入口はこの鳥居の場所だったことがわかります。

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神崎川は淀川水系になります。
下流では幾つかの川に分かれ大阪湾に注ぎますが
その一つが先ほど見てきた中島川です。

西島に入ります。
街道は西島川の堤防沿いを進みます。

堤防沿いを進む一般的な理由としては、
自然に出来た堤防は他より地盤が固いことが多く、
人々はそういう場所を選んで歩いていたことで、
道として成立していく流れが多いように思います。

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立派な出来島水門。
西島川の堰き止め用の水門になっています。
大阪ベイエリアにはいろんな目的の水門が多いですね。
高潮対策の立派なアーチ型のものもありますし。

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西島住吉神社がありました。
今は工業地帯の中にポツンとあるので違和感がありますが
元々はこの辺りに集落が存在していた証拠でもあります。

元禄11年の創建なので先ほどの五社神社と同時期のもので
尼崎街道が芽生え始めた頃の認識で良いと思います。

境内には古い狛犬や鳥居の一部が並べられていましたが
阪神大震災で倒壊し復旧した際にまとめられたそうです。

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両島橋で西島川を渡ると百島地区です。
西島水門の先には新淀川が流れています。

明治期の新淀川開削は一体を大きく変貌させました。
北西島、南酉島、北酉島といった地域が川底に沈みましたし、
数多くの旧河川が埋め立てられています。

この福の船溜まりはそういった場所で
かつては大野川が流れこむ河口だった名残です。

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対岸は伝法地区になりますが
開削前は当然ながら地道で歩いて行くことができました。

開削後、1942年に上流の伝法大橋が架かるまでは
対岸へは渡し(大潟渡)の利用が一般的でした。

当時の川幅(水域)は昭和になっても広いものではなく、
それは昔の航空写真を見れば一目瞭然なので、
渡し自体は短距離だったのではと思います。

さて、次回は伝法地区から歩みを進めていきます。


 
  
posted by にゃおすけ at 16:14 | Comment(0) | 大阪近辺の街道 | 更新情報をチェックする
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