ピンとくる人は案外少ないかもしれません。
百舌鳥・古市古墳群の世界遺産への登録を受けて
今、大阪の中で脚光を浴びている地域の一つです。
古市街道は大規模環濠集落で有名な平野郷より
東高野街道と竹内街道が交わる古市とを結びます。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
かつての平野は堺と同じような都市構造でした。
幸いにして、戦災は殆んどなかったおかげで
堺とは対称的に今も古い雰囲気が残っています。
杭全神社前の道標には葛井寺、高野山、大峰山の文字。
平野は集落としての規模が大きいものだったので
人々の往来は多く、経由する街道が数多くありました。


平野集落の各出入口には門が設けられていました。
この田畑口は平野郷十三口の一つです。
ここに置かれてあるお地蔵様は
役の行者像が一緒に祀られているのが特長です。
これは大峰山への参詣者も多く歩いていたことを意味します。
田畑口を抜ければ平野郷の外になり一面の田畑が広がります。
と、言いたいところですが戦後は市街地化が進み一面の住宅地。
しかも、街道ルートは一部で分断されています。


北出戸バス停。まだ町は静まり返っています。
名前に出戸が付きますが昔からの出戸の集落はもう少し先です。
今回の歩きは夏至の時期だったので4時台に出立しましたが、
普段は交通量があるようなところでも嘘のように少なく、
写真も気にせず撮れるので気楽に楽むことが出来ました。
下の写真の広い空き地は阪和貨物線の跡です。
関西線の久宝寺駅あたりから阪和線に抜ける短絡線で
一時は名古屋から和歌山への特急も走っていました。
今は電化設備はすっかり取り払われ、
草むらに隠れた砂利のみが線路があったことを語っています。


出戸集落付近の旧道。
古市街道は大阪府内にある街道の中でも
旧道が残っている割合が多いと感じます。
その先にある長原集落は、かつての長吉村の中心地で、
出戸や川辺などの六地域によって構成されていました。
「長吉」の地名の謂れは「いつまでもよい」からきていて
他にも説がありますが縁起のよい名前とされています。
大和川付替え前は狭山池からの東除川が集落内を流れていました。
付替え後は埋め立てて歩道になったという話を聞いていたので、
川筋が一体どこを通っていたか気になっていました。
おそらくですが、現在の道筋は旧東除川の上に設けられたもので
これは古地図に築堤が描かれているのでなんとなく想像できます。
付替え以前のルートも土地の使われ方を見るに同じように見えるので
この付近のルートは古い時代から変わってないのかもしれませんね。

この左手に真田幸村休息所跡があったそうです。
古市街道は大坂夏の陣で使われた道でもあります。
さて、新大和川の手前にある川辺集落が近づいてきました。
立派な家が多いのが特色の一つと言っていいもので
大和川関連での生業が多かったのかもしれません。


新大和川には橋は江戸時代を通じて1本しか架けられず、
下流域にある紀州街道に架けられた大和橋がそれでした。
なので、川辺集落から大堀集落へ行くには
橋はなく渡し舟もしくは徒歩渡りだったと思われます。
下の写真は川辺八幡神社の鳥居です。
古市街道には八幡神社が多いのが特長的ですが
ゴール付近には誉田八幡宮がありますしその影響でしょうか。
かつて社領は4町歩以上におよんでいたそうです。
付け替えで移転となり元の大部分は川床となっています。


大和川。
明治に入って一代目の明治橋が木橋で架けられます。
二代目は昭和5年に橋長170m、幅員5.5m、十四径間の単純鋼鈑橋で
現在の三代目は昭和63年に下流側に場所を変えて架けられています。
川を渡った先は大堀集落です。

高速道路建設によって移転などがあり随分と変わりましたが
付近には大堀城や大堀塁といった遺跡や伝承があることから
古い時代から人が住んでいたことは間違いないようです。
集落内の街道はどのように通っていたかは不明ですが
古地図から東除川沿いではなく集落内を通っていたと思われます。
今回はここまで。後半も実に面白味がある道のりです。
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