石畳のある道を進みます。

↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
西の聖天さんである興法寺は役行者の開基とされ、
弘法大師が堂を建立されたと伝えられています。
中世においては戦火などで焼失の目にあいますが
本尊である十一面千手観世音菩薩は平安後期のもので
大阪府の有形文化財に指定になっています。
山桜や雑木の茂る古寺らしいたたづまい。
山の中でこのような雰囲気は癒されますね。


ここから先はあれほどあった石仏は見なくなります。
道中で楽しませてくれていただけに寂しいものです。
峠まではあと少し。
やがて”らくらく登山道”と交差します。
これは言わば生駒山の高速道路のようなもので
誰でも歩きやすいよう整備された幅広の道です。
下の図を見てもらうとわかるように、
旧道と並行して共存しているのがわかります。
こういう場所では旧道を拡幅し吸収することが多いですが、
あえて旧道をそのまま残してくれた功績は大きいものです。

地理院地図より(黒い破線が辻子谷道)


視界が広がり大阪平野が見えてきます。
まもなく辻子峠!といきたいところですが、
一般のハイカーも歩いていたハイキングコースは、
峠へは向わず遊園地方向へと分かれてしまいます。
では、峠への道はというと、
入口は簡易バリケードで閉ざされていて、
その先は草木が生い茂った廃道になっています。
なぜ、廃道になってしまったのか。
それは生駒山を襲った昭和の水害が関係しています。
土砂崩れなど大きな被害を被ってしまったわけです。


廃道区間を自己責任で歩いてみると
意外や意外、藪や倒木は少なくテーピングがあり、
GPSを見ながら迷うことなく歩くことが出来ました。
おそらく地元の有志による整備のおかげと思いますが、
その快適さは完全復活も夢ではないと思わせるものでした。
それでも、未だ閉鎖になっている理由は、
辻子谷越えが人気コースであるがゆえでしょうね。
さすがに土砂崩れ地帯を大勢で歩くのは危険ですし。


峠にある江戸中期に作られた経塚はかなりの大きさです。
案内看板に宝山寺の文字があったので山域に入ったようです。
奈良側の廃道区間には丁石がいくつか見られました。
また所々に昭和前期ぐらいに作られた治水跡もあったので、
水害までは普通に皆さん歩いていたことと思います。
茶屋の跡もしくは畑の跡の石積みもありました。


やがて廃道を抜け登山道と合流すると
ケーブルカーと並行し奈良盆地が見え始めます。
そしてその先にあるのが生駒の聖天さん宝山寺です。



この日も多くの人が訪れていました。
さすがは年間300万人は訪れる場所です。
宝山寺。知られざる奈良の西側。
https://borabora.seesaa.net/article/477894387.html
詳細は以前書いた記事がありますので、
こちらを読んでいただければと思います。
この宝山寺をもって辻子谷越えは終わりですが、
奈良側からの宝山寺への道も気になりませんか?

正面参道と呼ばれた道こそが奈良側のメインで、
近鉄生駒線菜畑方面へと抜けて南北の主要道と接続します。
あれ?生駒駅方向ではなかったの??
今の感覚では多くの人が思う疑問でしょう。
実は生駒駅周辺の発展は大軌の影響が大きいもので、
開通を機にどんどん人口が増えていきます。
それまでの生駒は小さな集落があるのみだったので、
参道を作る必要も需要もなかったのでしょうね。


宝山寺からの帰りは新参道で生駒駅へと下りました。
大軌の開通が大正3年。
大勢の人を迎え入れるため立派な参道が作られます。
道中にある鳥居の年代はどれも同じような時期の建立で、
その大きさから当時の賑わいぶりがわかります。
しかしながら、大正7年にケーブルカーが開通すると
歩いて参拝する人は次第に減っていってしまいます。
ようするに一番輝いていたのは4年間だけだったのです。


宝山寺は昔は遊郭があるほど遊び場としても有名でしたが
今の門前町は全体的に閑散としているように見えます。
せっかく来たのだから一泊して帰ろう!と思う人は
交通機関が発達した今の時代は少ないのかもしれませんね。
昔は大阪から丸1日かかったものが今は小1時間ですし。
【出典】
生駒の古道 生駒民俗会著
大阪の街道と道標 武藤 善一郎著 など
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