創建は古く行基の時代まで遡ります。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

水間街道の起点は貝塚の紀州街道との追分。
貝塚は願泉寺を中心とした寺内町で
古い家々が道筋と共に今もよく残っています。
大阪では富田林に次ぐぐらいの規模でしょうか。
貝塚の名は元々は「海塚」だったのですが、
16世紀に寺内町が形成された頃に「貝塚」となります。

上の写真は駅前にあった領界石。
「海塚」と書かれているのに注目です。
この領界石は明治のものなので
16世紀のものではありません。では、なぜ?
実は貝塚の名は寺内町を中心とした場所のもので、
それ以外の旧村は海塚のまま残っていたようなのです。


灰色の部分が寺内町に存在した壕の推定場所です。
今は市の名前になって広域を指すようになっていますが、
この寺内町こそが貝塚の原点といえる場所でしょう。
ちなみに貝塚は縄文時代の塚と連想しやすいですが
未だ遺跡が見つかってないので関連は薄いとのこと。
海塚から貝塚になった経緯が気になりますね。

さて、街道ルートを特定する時に役立つのが古地図です。
それは江戸時代前のものから明治時代まで様々ですが、
貝塚には日本一古い私鉄とされる南海電車が走っているので
明治の地図では既に線路が通ってしまっています。
そこで、古地図が中心となっていくわけですが、
幸いにして願泉寺の絵図が豊富に残されてあるので
それを見ればルート特定は比較的容易かもしれません。
ただし、道筋は車社会の影響で拡幅をしていることがあります。
どちらが拡幅した側なのか調べてみる必要があるのですが、
手っ取り早い見分け方としては現地調査が一番でしょうね。
大抵は古い家が建っている側が昔の旧道沿いといえると思います。

感田神社。
寺内町の東端に位置する貝塚の産土神です。
境内には寺内町の壕が残されています。
現在はこの一角のみしか残っていませんが、
戦前までは三方にしっかりあったそうです。


今昔マップより
昔は寺内町を出ると田畑が広がっていました。
田畑に必要なものといえば、水ですね。
泉州地域は河川が少なく水不足が顕著だったので、
古くから溜池が作られ今も数多く残っています。

ただ、多くのものは老朽化が進んでいるようです。
大雨等で決壊や破損につながる恐れがあるので、
街道筋の溜池では補強しているものも見られました。
今回はここまで。
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