2021年06月18日

長崎街道その7・吉野ヶ里→佐賀城下

2年ぶりの長崎街道歩き。
このところ地元の街道ばかり歩いていたので、
当然のことながらテンションがあがります。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

遠方の街道歩きの良い点は
日頃と違う空間を楽しめることでしょう。
歩くことで土地の人の生活ぶりを感じられたりして、
住んでいる地域と比較できるのは楽しいものです。

もちろん自動車や自転車でも感じることはできますが、
街道歩きはスピードが遅いのでより濃厚といえます。

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田手は間の宿として栄えていました。

一見すると古い家があるので昔の風情を感じますが、
明治維新後の佐賀の乱で大きな被害を受けています。

しかも、最大の激戦地と言われた場所なので、
おそらく古い家は乱後のものかもしれません。

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GW時期の佐賀は麦畑が広がっています。

街道は畑を縫うように進むわけですが、
古地図を見れば昔も似た感じだったことがわかります。

中には土地区画整理で失われた場所もありますが、
昔の人と同じような感覚で歩けるのは嬉しいものです。

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ちなみに麦畑は6月には稲作に変わります。
いわゆる二毛作で10月になると稲刈りをして野焼きを経て、
11月下旬には再び麦を植えるというものです。

佐賀県は田植えが47都道府県の中で最も遅いそうで、
農地の空く時期に有名なバルーンフェスタが行われています。

下の写真は「ひのはしら一里塚」。
長崎街道で唯一現存するとされているものです。
名前は神崎宿にある櫛田宮の朱塗りの鳥居からきていて
かつてはここに立っていたといいます。

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頂上にはイボがとれる地蔵様が祀られています。
一里塚から程なく進めば神崎宿です。

神崎の名の起こりは実は櫛田宮からきています。
不幸が続き住人が苦しんでいたところ当社を建てたところ、
あら不思議!災厄がなくなったのだとか。

そこで「神幸(かむさき)」と言われるようになり、
やがて「神崎」となっていったようです。

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雰囲気のある神社前。
明治以降においても賑わいがあったので
重厚なレトロ建築を見かけることができます。

宿場内の中心部には馬場川が流れていて
有明海への物資を積んだ船の往来がありました。
ようするに地域の物流の拠点でもあったのです。

古絵図には川沿いの道も太く赤く塗られています。
おそらく物資輸送はこちらを経由したのかもしれません。

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上の写真は西木戸があった場所です。
神崎宿は重要な位置づけとなっていたことから
出入口は木組み格子の頑丈な扉が設置されていました。

それは、吉田松陰曰く
「並々ならぬ構えぶりであった」と記しているほどです。

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城原川沿いを下って行くと、
姉本集落をはじめ環濠集落が点々とあります。

その周囲には弥生時代の集落跡も確認されていて、
佐賀県では吉野ヶ里遺跡が全国的に有名ではあるのですが
実はこの辺りも歴史深い場所だったりするのです。

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地蔵橋にあった六地蔵様。
円柱状になったタイプは珍しいものだと思います。
佐賀の乱の戦死者を祀るため地元民が建立したそうです。

やがて境原宿へ入ります。

かつては蝋の問屋が多く白壁の土蔵が並んでいましたが
ここも先の宿場と同様に佐賀の乱で被害がありました。

現在は古い家は見渡してもない状態ですが、
宿場内には桝形の痕跡や旧道の一部が残っていて、
わずかながらに宿場だったことを感じることができます。

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この辺りから増えてくるのは恵比寿像です。
初代藩主の鍋島勝茂公が西宮神社に崇敬があったことで
佐賀城下を中心にあちこちで見ることができます。

若宮神社では立派な肥前鳥居が構えられていました。

神社と街道の間には水路が通っていますが、
鏡原宿でも水運が盛んで多くの舟が出入りしていたそうです。

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郡境石。「従是西佐嘉郡、東神埼郡」

まもなく佐賀城下です。

今回はここまで。
この日は久保田宿まで歩きました。




posted by にゃおすけ at 10:37 | Comment(0) | 長崎街道 | 更新情報をチェックする
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