このところ地元の街道ばかり歩いていたので、
当然のことながらテンションがあがります。

↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
遠方の街道歩きの良い点は
日頃と違う空間を楽しめることでしょう。
歩くことで土地の人の生活ぶりを感じられたりして、
住んでいる地域と比較できるのは楽しいものです。
もちろん自動車や自転車でも感じることはできますが、
街道歩きはスピードが遅いのでより濃厚といえます。


田手は間の宿として栄えていました。
一見すると古い家があるので昔の風情を感じますが、
明治維新後の佐賀の乱で大きな被害を受けています。
しかも、最大の激戦地と言われた場所なので、
おそらく古い家は乱後のものかもしれません。

GW時期の佐賀は麦畑が広がっています。
街道は畑を縫うように進むわけですが、
古地図を見れば昔も似た感じだったことがわかります。
中には土地区画整理で失われた場所もありますが、
昔の人と同じような感覚で歩けるのは嬉しいものです。

ちなみに麦畑は6月には稲作に変わります。
いわゆる二毛作で10月になると稲刈りをして野焼きを経て、
11月下旬には再び麦を植えるというものです。
佐賀県は田植えが47都道府県の中で最も遅いそうで、
農地の空く時期に有名なバルーンフェスタが行われています。
下の写真は「ひのはしら一里塚」。
長崎街道で唯一現存するとされているものです。
名前は神崎宿にある櫛田宮の朱塗りの鳥居からきていて
かつてはここに立っていたといいます。


頂上にはイボがとれる地蔵様が祀られています。
一里塚から程なく進めば神崎宿です。
神崎の名の起こりは実は櫛田宮からきています。
不幸が続き住人が苦しんでいたところ当社を建てたところ、
あら不思議!災厄がなくなったのだとか。
そこで「神幸(かむさき)」と言われるようになり、
やがて「神崎」となっていったようです。


雰囲気のある神社前。
明治以降においても賑わいがあったので
重厚なレトロ建築を見かけることができます。
宿場内の中心部には馬場川が流れていて
有明海への物資を積んだ船の往来がありました。
ようするに地域の物流の拠点でもあったのです。
古絵図には川沿いの道も太く赤く塗られています。
おそらく物資輸送はこちらを経由したのかもしれません。


上の写真は西木戸があった場所です。
神崎宿は重要な位置づけとなっていたことから
出入口は木組み格子の頑丈な扉が設置されていました。
それは、吉田松陰曰く
「並々ならぬ構えぶりであった」と記しているほどです。

城原川沿いを下って行くと、
姉本集落をはじめ環濠集落が点々とあります。
その周囲には弥生時代の集落跡も確認されていて、
佐賀県では吉野ヶ里遺跡が全国的に有名ではあるのですが
実はこの辺りも歴史深い場所だったりするのです。


地蔵橋にあった六地蔵様。
円柱状になったタイプは珍しいものだと思います。
佐賀の乱の戦死者を祀るため地元民が建立したそうです。
やがて境原宿へ入ります。
かつては蝋の問屋が多く白壁の土蔵が並んでいましたが
ここも先の宿場と同様に佐賀の乱で被害がありました。
現在は古い家は見渡してもない状態ですが、
宿場内には桝形の痕跡や旧道の一部が残っていて、
わずかながらに宿場だったことを感じることができます。


この辺りから増えてくるのは恵比寿像です。
初代藩主の鍋島勝茂公が西宮神社に崇敬があったことで
佐賀城下を中心にあちこちで見ることができます。
若宮神社では立派な肥前鳥居が構えられていました。
神社と街道の間には水路が通っていますが、
鏡原宿でも水運が盛んで多くの舟が出入りしていたそうです。


郡境石。「従是西佐嘉郡、東神埼郡」
まもなく佐賀城下です。
今回はここまで。
この日は久保田宿まで歩きました。