間の宿である久保田宿より出立しました。

↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
境川を渡れば小城市に入ります。
小京都小城と呼ばれる場所はまた別の場所です。
次の牛津宿は小城藩の港が整備された重要な場所で
様々な産物の集積地として栄えていました。
それは西の浪花と呼ばれたほどでした。


宿場中心部は昭和末期に区画整理が行われました。
その結果、古い雰囲気が失われてしまっていますが、
脇道に逸れると区画整理から免れた建物が点在しています。
牛津町会館や牛津赤れんが館は代表的なものです。
町歩きは表通りだけでなく裏通りにも見所があるもので、
忙しい街道歩き中でも気を抜けません。

長崎街道は砂糖が運ばれた道でもあって
シュガーロードと呼ばれ沿道には菓子文化が花開きました。
小城といえば羊羹が有名ですが小城羊羹も原点を辿れば
長崎街道が関係しているのかもしれませんね。


牛津駅から先は区画整理が行われず、
昔の繁栄を想像できるような光景が広がっています。
宿場の西の端には牛津川が流れ、かつて港がありました。
痕跡は昔と流れが変わっているので皆無に等しく、
ちょうど中州になっているあたりが川筋だったといいます。


長崎街道の珍名所「カンカン石」
見ての通り一見すると普通の石に見えますが
小石で叩けばカンカンと音が鳴るのです。
この石の正体はサヌカイトなわけですが、
当時の人にとっては摩訶不思議だったことでしょう。


新緑の季節は山がパッチワークのようで美しい。
長崎街道は肥前山口駅前を進みます。
新幹線が開業する時期に江北駅になると話題になりました。
すでに山口村の自治体名はとっくの昔にないわけですが、
よく令和の時代まで名前が残っていたなと思います。
この先の長崎街道はいくつかのルートに分かれます。
長崎本線に沿った海沿いの道が鹿島道です。


今回の区間では旧道が随分と残っていました。
そのおかげで「道路元標」も多く現存していました。
下の写真は旧山口村のものですが、
見ての通りほとんど判読不能となっています。
どうも佐賀県に入ってからは石の材質が違うのか
このようになってるものが多い気がしました。
地元の人と話をしましたが石が何か御存知でない様子で
道路元標で大正時代のものと説明すると驚かれていました。


間の宿である朝鍋宿。
古い地図を見ても人家は少な目に描かれています。
麦畑をしばらく行けば小田宿に入るので、
需要自体あまりなかったのかもしれません。


小田宿は古い家が全般的に少ないのが意外でしたが、
道筋と家の敷地に面影を感じることができました。
見所は下の写真の旧家の向かいにある茶屋岩見屋の池園。
池の水は扇状地から流れ出る湧水を利用したもので
藩主もたびたび休息していたそうです。


ちょうど楠の大木があったので私も暫し休息。
シーボルトやケンベルも日記に書くほどのもので、
樹齢は驚くことに1200年も経っているそうです。
でも、武雄周辺には樹齢3000年なんてのも存在します。
この地域は巨木が育ちやすい環境なのかもしれませんね。
今回はここまで。
次回は武雄温泉までの道筋です。
Wikipediaの「長崎街道」に、「元禄頃の長崎街道 (ケンペル『日本誌』、ロンドン、1727年刊)」との注釈付きで古地図が貼ってあります。この古地図にある地名が小字(こあざ)までたどると残っていることもあるようです。
この記事の区間については、
Sanga:佐賀の城下から下った
Botack: 久保田?(この記事の写真1、2)
Utsinsi: 牛津?(この記事の写真3〜5)
Simatz: 新町(写真6)写真5の牛津駅から先にいった「六間橋」を渡った先が、大字牛津小字新町といいまして、わが実家のある町です。いわゆる川向うだったようで、六間橋〜大橋間の集落に、昭和初期まで遊郭が4軒あったそうです。我が家の屋号は油屋で隣は豆屋だそうです。この集落は街道沿いだけでなく、川沿いを歩くと古い石壁や尼寺、庵などの街並み、川湊の舟溜まりの入り江や桟橋の名残りがわかったと思います。子供のころから牛津宿の本陣界隈の本町に対する新町だとは思ってましたが、いつ頃からの新町かというと、1727年刊の「日本誌」には既にあったようです。
新町の西の端、大橋(写真7)を渡った先が
Kongawa: 砥川(とがわ)になります。
古地図でも、新町の東側と西側に川があったことがわかります。
とりあえず、死ぬまでにどなたかに言っておきたくて、書き込みました。
失礼します。
貴重な話です。
駅から川にかけては道路の拡幅はされておらず、
昔の雰囲気が良く残っていてかなり印象に残っています。
なるほど、遊郭もこの界隈にあったとは、
さすがは西の浪花と言われただけはありますね。