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一般的に通行量が増えると旧道を拡幅するものですが
ここの場合は新しい道が並行して作られています。
いわゆるバイパスと呼ばれるものです。
長崎街道は長崎とを結ぶ重要路なので、
山沿いをウネウネした旧道を拡幅するだけでは
需要に対応できないと判断してのものでしょう。
おかげで旧道は生活道路として残されることになり
長い距離に渡って往時を偲べるのは有難いことです。

代官所跡。
財政難の佐賀藩を立て直すために作ったシステムで
横辺田にある代官所は初期に建てられた一つです。
当時の佐賀藩の財政を調べてみると、
他の藩と同じような一般的なお役目以外にも
佐賀藩には特別に長崎警備強化の負担がありました。
これが財政難の原因とは一概には言えませんが、
直正公の時代の話では江戸から佐賀へ向かった折りのこと、
途中の品川で米や味噌を収めていた商人が押しかけてきて
返済を求めて行列が動けなくなったことがありました。
日用品の支払いにも事欠くほど困窮していたのは確かなようです。



大町町役場付近の街道はカラー舗装されていました。
右手は石切場跡(下の写真)
建築用材として広く利用され舟で積み出されていました。
享保年間には佐賀城普請にも使われていたそうです。
ここは古代まで遡れば赤坂砦として有名な場所でもあります。


この辺りは地図を見ると溜池が多いのがわかります。
これは多くのものが農業用として作られているもので、
上の写真の焼米池(当初は龍王池)は江戸中期のものです。
近代になって拡張されているので驚くほど広々としています。
街道の南を六角川が流れてはいますが、
それでも水不足の対策が必要とは不思議なものです。

しかしながら、六角川でひとたび洪水がおこると、
周辺の地質は有明粘土層なので水はけが非常に悪く、
街道の通行に支障が出るほどだったそうです。
この辺りの長崎街道が山に沿ったルートなのは、
洪水時でも安定した通行を考えてのものかもしれませんね。

焼米宿はJR北方駅近くにあります。
間の宿ではあるのですが旅籠があり日用雑貨店など
十数軒が並ぶ庶民的な町が広がっていたそうです。
先ほどの赤坂(石切場)で取れた石材や炭鉱のおかげで
昭和初期まで賑わっていたといいます。

右手に追分観音。
ここが塩田道との追分の場所にあたります。
長崎街道開設当初は塩田道が本道でしたが
度重なる水害で武雄温泉経由がメインとなります。


北方宿。右が本陣跡で左が脇本陣跡。
手前にある川が堀の役目となっていて東溝口にあたります。
立派な白壁の建物は天保10年のもの。
この付近では江戸中期から石炭の採掘が盛んで
街道は石炭を山積みにした人馬が往来していたそうです。

その様子を描いた絵馬が八幡社に奉納されています。
この辺りの炭鉱は1970年代に閉山を迎えますが、
幕末の頃は困窮対策に藩が経営に乗り出してくると
特に製塩向けに需要を伸ばしていたといいます。
北方宿の中心部で直角に曲がると西溝口です。


高橋宿は間の宿でした。
地名の謂れは高橋という古い石橋で、
現在はコンクリート製に架け替えられています。
そして享保橋なるものも高橋宿のはずれにあるのですが、
名前から見て長崎街道がこちらが本道となった時期と重なるので
ちょうどその頃に初代が架けられたものと思われます。

麦畑と御船山。今回のゴールが見えてきました。
この先の街道は平坦なJR線沿いへは行かず
なぜか、丘を越える道筋をとっています。
おそらく昔は入江が多かったという話があるので
古来からの道を踏襲しているのではと思われます。


八並地区の石塔は古いもので1200年頃のもの。
ただ風化が激しく何が書いてあるのか不明なのが残念です。
そういえば、写真には撮っていませんが
お墓に供えている花が全て綺麗なもので華やかなものでした。
鹿児島ではよく見られる光景ですが
この辺りも同じような文化があるのでしょうか。

桝形の跡。
この辺りは既に塚崎宿に入っていると思われます。
武雄は温泉場として開かれた町で古くからある地名ですが
広域においては「塚崎」「柄崎」と呼ばれるのが一般的でした。
武雄が全国的に認知されるようになったのは
鉄道の開業によるものが大きいそうです。


江戸時代の塚崎宿の絵図。
武雄温泉のシンボルである楼門は描かれていません。
それもそのはず楼門は大正期の建物で辰野金吾の設計。
元々は本陣があった場所だったのです。

今回はここまで。
次は嬉野温泉までの道中になります。