2021年07月20日

長崎街道その10・小田宿→武雄温泉

山に沿って旧道が続きます。
 
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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

一般的に通行量が増えると旧道を拡幅するものですが
ここの場合は新しい道が並行して作られています。
いわゆるバイパスと呼ばれるものです。

長崎街道は長崎とを結ぶ重要路なので、
山沿いをウネウネした旧道を拡幅するだけでは
需要に対応できないと判断してのものでしょう。

おかげで旧道は生活道路として残されることになり
長い距離に渡って往時を偲べるのは有難いことです。

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代官所跡。

財政難の佐賀藩を立て直すために作ったシステムで
横辺田にある代官所は初期に建てられた一つです。

当時の佐賀藩の財政を調べてみると、
他の藩と同じような一般的なお役目以外にも
佐賀藩には特別に長崎警備強化の負担がありました。

これが財政難の原因とは一概には言えませんが、
直正公の時代の話では江戸から佐賀へ向かった折りのこと、
途中の品川で米や味噌を収めていた商人が押しかけてきて
返済を求めて行列が動けなくなったことがありました。
日用品の支払いにも事欠くほど困窮していたのは確かなようです。

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大町町役場付近の街道はカラー舗装されていました。

右手は石切場跡(下の写真)
建築用材として広く利用され舟で積み出されていました。
享保年間には佐賀城普請にも使われていたそうです。

ここは古代まで遡れば赤坂砦として有名な場所でもあります。

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この辺りは地図を見ると溜池が多いのがわかります。

これは多くのものが農業用として作られているもので、
上の写真の焼米池(当初は龍王池)は江戸中期のものです。
近代になって拡張されているので驚くほど広々としています。

街道の南を六角川が流れてはいますが、
それでも水不足の対策が必要とは不思議なものです。

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しかしながら、六角川でひとたび洪水がおこると、
周辺の地質は有明粘土層なので水はけが非常に悪く、
街道の通行に支障が出るほどだったそうです。

この辺りの長崎街道が山に沿ったルートなのは、
洪水時でも安定した通行を考えてのものかもしれませんね。

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焼米宿はJR北方駅近くにあります。

間の宿ではあるのですが旅籠があり日用雑貨店など
十数軒が並ぶ庶民的な町が広がっていたそうです。

先ほどの赤坂(石切場)で取れた石材や炭鉱のおかげで
昭和初期まで賑わっていたといいます。

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右手に追分観音。
ここが塩田道との追分の場所にあたります。

長崎街道開設当初は塩田道が本道でしたが
度重なる水害で武雄温泉経由がメインとなります。

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北方宿。右が本陣跡で左が脇本陣跡。
手前にある川が堀の役目となっていて東溝口にあたります。

立派な白壁の建物は天保10年のもの。

この付近では江戸中期から石炭の採掘が盛んで
街道は石炭を山積みにした人馬が往来していたそうです。

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その様子を描いた絵馬が八幡社に奉納されています。

この辺りの炭鉱は1970年代に閉山を迎えますが、
幕末の頃は困窮対策に藩が経営に乗り出してくると
特に製塩向けに需要を伸ばしていたといいます。

北方宿の中心部で直角に曲がると西溝口です。

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高橋宿は間の宿でした。

地名の謂れは高橋という古い石橋で、
現在はコンクリート製に架け替えられています。

そして享保橋なるものも高橋宿のはずれにあるのですが、
名前から見て長崎街道がこちらが本道となった時期と重なるので
ちょうどその頃に初代が架けられたものと思われます。

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麦畑と御船山。今回のゴールが見えてきました。

この先の街道は平坦なJR線沿いへは行かず
なぜか、丘を越える道筋をとっています。

おそらく昔は入江が多かったという話があるので
古来からの道を踏襲しているのではと思われます。

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八並地区の石塔は古いもので1200年頃のもの。
ただ風化が激しく何が書いてあるのか不明なのが残念です。

そういえば、写真には撮っていませんが
お墓に供えている花が全て綺麗なもので華やかなものでした。

鹿児島ではよく見られる光景ですが
この辺りも同じような文化があるのでしょうか。

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桝形の跡。
この辺りは既に塚崎宿に入っていると思われます。

武雄は温泉場として開かれた町で古くからある地名ですが
広域においては「塚崎」「柄崎」と呼ばれるのが一般的でした。

武雄が全国的に認知されるようになったのは
鉄道の開業によるものが大きいそうです。

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江戸時代の塚崎宿の絵図。
武雄温泉のシンボルである楼門は描かれていません。

それもそのはず楼門は大正期の建物で辰野金吾の設計。
元々は本陣があった場所だったのです。

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今回はここまで。
次は嬉野温泉までの道中になります。




posted by にゃおすけ at 14:09 | Comment(0) | 長崎街道 | 更新情報をチェックする
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