西の夜明けは遅いことを実感した道中でした。
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街道歩きで至福な時といえば温泉でしょうか。
温泉宿が都合よく街道上にあることは稀ですが、
武雄温泉では1人利用が可能な宿がいくつかあったので、
温泉に入って昔の旅人気分を楽しむことが出来ました。

西溝口を過ぎるころには夜が明けてきました。
特徴的な御船山が綺麗な朝焼けに映えます。
下の写真は湯の谷石橋です。
パッと見た感じは普通の橋に見えますが、
橋脚を見れば昔の造りなのが一目瞭然です。

しかし、よく見ると橋脚が欠損しています。
これは2年前の水害によるもので、
いつ壊れてもおかしくない寸止めの状態です。
当然ながら通行禁止の処置が取られていました。

この先は渕ノ尾峠への峠道となります。
本来ならば川沿いを辿っていくのですが、
ダム設置によって失われています。
でも、安心してください。
迂回路を辿った先で旧道が復活しているのです。

一見すると普通の山道に見えなくもないですが、
道幅を見ると妙に広すぎる感じがすると思います。
この道幅こそが多くの人が往来していた証拠で、
全体的に緩やかな勾配なのも街道によくある特長です。
人に限らず物資の輸送も多かったことでしょう。


渕ノ尾峠。
峠道は山の中にあることから、
町中とは違って往時に近い状態である場合があります。
人が通らなくなると必然的に荒れてくるものですが、
藪さえ処理すれば意外と通れたりするものです。
この淵ノ尾峠の区間は保存状態が良好だったので、
昔の有名な人も通ったと思うと感慨深いものがありました。


真新しい西九州新幹線と交差します。
ここから嬉野にかけては区画整理が大規模に行われ、
旧道を辿ることが困難な状況になっています。
かつての様子は昔の航空写真で確認出来ます。
さらに近年になって新幹線の工事が始まったので、
消失箇所が増えたのではと少し気がかりでした。


上の写真の場所はギリギリ街道を避けてくれたようです。
工事のおかげで昔の風情はすっかりなくなっていますが、
道筋を昔に近い状態で辿れるだけでも大変有難く思います。


嬉野が近づいてくると茶畑が増えてきます。
この一帯は茶の生産が盛んで名前は県境で変化します。
佐賀県側を嬉野茶。長崎県側を彼杵茶と呼ばれています。
嬉野茶は1440年に中国から移り住んだ陶芸工が
自家用に茶を栽培したのがはじまりとされています。
有田を含むこの一帯は古くから陶芸が盛んだったので、
陶芸があったからこそ生まれた茶といえるかもしれません。

遠くに嬉野宿が見えてきました。
北方宿で分かれた塩田道と合流します。
下の写真は上使屋の門ですが
本来、上使屋とは大名などが休む本陣の施設です。
ところが嬉野宿の上使屋は大層狭かったので
専ら瑞光寺が使われていました。
上使屋は明治になると旅館に払い下げられ、
大きな門は必要ないということで移設することになり、
明元寺の山門として今も見ることができるのです。


大定寺坂を下って温泉街へ。
坂の名前になってる寺は鍋島藩の祈願寺で、
藩から厚い庇護があり伽藍を構えるほど大きな寺でした。
ところが廃藩の際に寺領を没収される目にあいます。
資金が途絶え荒廃し山間に移転となりました。
ちなみに坂の上には地蔵堂と石塔があるのですが、
大定寺と何か関係があるのでしょうか。

嬉野宿。東西500mの宿場内には
約30軒の旅籠、木賃宿や商家が100軒ほどが並んでいて、
古くから「湯宿」と言われるほど賑わっていました。
嬉野宿の特筆すべき点は「番号が書かれた石」でしょう。

佐賀本藩と蓮池支藩に支配されていた嬉野宿は
江戸中期に境界紛争が勃発して本藩が勝利します。
その後、新しい境界には約2000個の番号石が
20メートル間隔で設置されることとなります。
驚くべきことは宿場内だけではなく、
嬉野地区の村全体に設置されていたのです。
これだけ見ても紛争が大事だったことがわかります。

この左手の広場が旧上使屋の場所にあたります。
見渡した感じ本陣として使用するには狭すぎです。
ちなみに藩営の温泉があったのもこの辺りになります。
近接するシーボルトの湯で汗を流しましましたが、
温泉の質は武雄温泉と似ていてヌルヌル感があって、
さすがは日本三大美肌の湯と言われるだけはありました。
この為に朝早く出立したのは正解でした。
今回はここまで。
次は彼杵宿までの道筋です。