2021年08月17日

長崎街道その11・武雄温泉→嬉野宿

GWとなれば4時台から明るいものですが
西の夜明けは遅いことを実感した道中でした。


↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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街道歩きで至福な時といえば温泉でしょうか。

温泉宿が都合よく街道上にあることは稀ですが、
武雄温泉では1人利用が可能な宿がいくつかあったので、
温泉に入って昔の旅人気分を楽しむことが出来ました。

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西溝口を過ぎるころには夜が明けてきました。
特徴的な御船山が綺麗な朝焼けに映えます。

下の写真は湯の谷石橋です。

パッと見た感じは普通の橋に見えますが、
橋脚を見れば昔の造りなのが一目瞭然です。

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しかし、よく見ると橋脚が欠損しています。

これは2年前の水害によるもので、
いつ壊れてもおかしくない寸止めの状態です。
当然ながら通行禁止の処置が取られていました。

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この先は渕ノ尾峠への峠道となります。

本来ならば川沿いを辿っていくのですが、
ダム設置によって失われています。

でも、安心してください。
迂回路を辿った先で旧道が復活しているのです。

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一見すると普通の山道に見えなくもないですが、
道幅を見ると妙に広すぎる感じがすると思います。

この道幅こそが多くの人が往来していた証拠で、
全体的に緩やかな勾配なのも街道によくある特長です。
人に限らず物資の輸送も多かったことでしょう。

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渕ノ尾峠。

峠道は山の中にあることから、
町中とは違って往時に近い状態である場合があります。
人が通らなくなると必然的に荒れてくるものですが、
藪さえ処理すれば意外と通れたりするものです。

この淵ノ尾峠の区間は保存状態が良好だったので、
昔の有名な人も通ったと思うと感慨深いものがありました。

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真新しい西九州新幹線と交差します。

ここから嬉野にかけては区画整理が大規模に行われ、
旧道を辿ることが困難な状況になっています。
かつての様子は昔の航空写真で確認出来ます。

さらに近年になって新幹線の工事が始まったので、
消失箇所が増えたのではと少し気がかりでした。

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上の写真の場所はギリギリ街道を避けてくれたようです。
工事のおかげで昔の風情はすっかりなくなっていますが、
道筋を昔に近い状態で辿れるだけでも大変有難く思います。

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嬉野が近づいてくると茶畑が増えてきます。
この一帯は茶の生産が盛んで名前は県境で変化します。
佐賀県側を嬉野茶。長崎県側を彼杵茶と呼ばれています。

嬉野茶は1440年に中国から移り住んだ陶芸工が
自家用に茶を栽培したのがはじまりとされています。

有田を含むこの一帯は古くから陶芸が盛んだったので、
陶芸があったからこそ生まれた茶といえるかもしれません。

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遠くに嬉野宿が見えてきました。
北方宿で分かれた塩田道と合流します。

下の写真は上使屋の門ですが
本来、上使屋とは大名などが休む本陣の施設です。
ところが嬉野宿の上使屋は大層狭かったので
専ら瑞光寺が使われていました。

上使屋は明治になると旅館に払い下げられ、
大きな門は必要ないということで移設することになり、
明元寺の山門として今も見ることができるのです。

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大定寺坂を下って温泉街へ。

坂の名前になってる寺は鍋島藩の祈願寺で、
藩から厚い庇護があり伽藍を構えるほど大きな寺でした。

ところが廃藩の際に寺領を没収される目にあいます。
資金が途絶え荒廃し山間に移転となりました。

ちなみに坂の上には地蔵堂と石塔があるのですが、
大定寺と何か関係があるのでしょうか。

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嬉野宿。東西500mの宿場内には
約30軒の旅籠、木賃宿や商家が100軒ほどが並んでいて、
古くから「湯宿」と言われるほど賑わっていました。

嬉野宿の特筆すべき点は「番号が書かれた石」でしょう。

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佐賀本藩と蓮池支藩に支配されていた嬉野宿は
江戸中期に境界紛争が勃発して本藩が勝利します。

その後、新しい境界には約2000個の番号石が
20メートル間隔で設置されることとなります。

驚くべきことは宿場内だけではなく、
嬉野地区の村全体に設置されていたのです。
これだけ見ても紛争が大事だったことがわかります。

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この左手の広場が旧上使屋の場所にあたります。
見渡した感じ本陣として使用するには狭すぎです。
ちなみに藩営の温泉があったのもこの辺りになります。

近接するシーボルトの湯で汗を流しましましたが、
温泉の質は武雄温泉と似ていてヌルヌル感があって、
さすがは日本三大美肌の湯と言われるだけはありました。

この為に朝早く出立したのは正解でした。
  
今回はここまで。
次は彼杵宿までの道筋です。





   
posted by にゃおすけ at 11:42 | Comment(0) | 長崎街道 | 更新情報をチェックする
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