2021年10月25日

長崎街道その13・彼杵宿→千綿駅

海を眺めながら大村湾沿いを進みます。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。 

彼杵は鯨が有名で今も鯨肉を売る店を見かけます。

元禄年間の石積みが残る彼杵港からは、
天候が良いと長崎手前の時津まで舟での移動が可能で、
旅程にして1日短縮できたというから大したものです。

このように陸、海の交通の要衝であったので
各地の産物が集まり古くから賑わいがあったそうです、

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本町万部塔。

明暦年間に大村で多数の隠れキリシタンが発見されます。
いわゆる「郡崩れ」と呼ばれる事件です。

宝塔は仏教徒である証として建立したものの一つで、
このような史跡は大村にかけて多く見かけます。

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彼杵宿大村側の出口には川が流れていますが、
その河口が元禄年間に新港が出来る前の港でした。

二十六聖人はこの港から長崎へ向かい磔の刑に処されます。
1597年というので豊臣秀吉の時代の話です。

さて、この日の気温は30度もありました。
9月も下旬なので涼しくなってることを期待したのですが、
それは叶わず、容赦ない日差しが降り注ぐ道中となりました。

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そういうことなので旧道は藪となっていた場所があり、
例えば、上の案内板のように案内されて迂回したとしても、
そこがまた藪になってるという始末で厄介でした。

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それでも海と並行しているおかげで
海風があり頬に当たる風がなんとも心地良いもので、
街道に咲く彼岸花とともに秋を感じることができました。

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次の千綿宿は正式な宿場町ではないものの商工業の町で
入母屋造妻入の住宅に往時の賑わいを感じました。
また、商売が上手くいっていたのか裕福な人が多く、
人形浄瑠璃や歌舞伎という芸能も盛んだったようです。

町並みの長さは約400m。南北に細長い旧道筋は、
車通りが殆んどなく静かな空間となっていました。

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千綿宿大村側出口には川が流れ制札場がありました。
川には橋は架けられず石渡りだったそうです。

長崎県内に入ると飛び石を使った渡しを多く見かけます。
地形的に普段の水量はそれほどでもなかったのでしょうか。
でも、川幅は適度に広く作られているのを見ると、
洪水時とそれ以外の水量差は結構あったのかもしれません。

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大村湾の眺めが抜群です!
対岸は天草。そして長崎の時津までも見えています。

線路と並行して進めば千綿駅に到着します。

大村線は歴史の古い路線です。
長崎本線だった時期もある大幹線だったわけですが、
それだけに線路はしっかりしたものが作られたようで、
レンガ造りなどの明治建築を多く見かけました。

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ただ、街道のルート調べに関して言えば、
早い時期の鉄道敷設は特定を難しくさせています。

上の写真の場所においても長崎街道上に線路を敷いたのか、
街道の横に併設して線路を敷いたのかよくわかりません。

「そんな細かく考えなくていいでしょ・・・」

と、思われる方が多数だと思いますが、
そういうのを推測するのがまた楽しいんですよね。

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JR千綿駅は海が近いことで有名な駅です。
近年はJRのポスターでさらに話題になっています。

そのせいか休日ともなると多くの観光客が訪れるようです。
ちなみに駅舎は11時開店の喫茶店になっていました。



posted by にゃおすけ at 11:51 | Comment(0) | 長崎街道 | 更新情報をチェックする
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