
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
駅周辺には一見すると雰囲気良い旧道がありますが
これらは残念ながら長崎街道ではありません。
国道建設などの影響で地形が随分変わっているのです。
旧道は小学校付近から復活しています。
うどん坂の急坂を下った先が江の串地区です。


江の串は古墳時代から開けていた場所で、
近世では大村藩によって斜面開発が行われています。
山には立派な段々畑を見渡すことができますが、
畑に草木が生え揃っているところを見ると、
廃れてしまったものが多いようです。


あぜ道のような道筋が続きます。
日陰でない場所は草の生え方が激しいです。
かつては多くの人が通っていたであろう道も、
年月が経てばこのようになるのは仕方ないですが、
往時の様子は手記などで伺い知ることができます。


シーボルト曰く、
「千綿街道は湾沿いに続く丘の険しい斜面の〜」
と記すように斜面にへばり付く道筋が続いています。
才貫田地区の旧道は特にそのような場所だったようで、
街道の道筋は谷を越えるために山側に巻いていたりと、
大きく蛇行する様は険しさを象徴しています。
現在は一部を除いて廃道となっています。
簡単なレポートはヤマレコの記録をご覧ください。



大村線の踏切を渡って海側へ。
元は島だった頂きに「さや御前」があります。
特長的な御神体の姿を見てもわかるように
性の神様として慕われているそうです。


松原宿が近づいてきました。
宿場の出入口には刑場や墓があることが多いですが
松原宿においても例外ではなく広大な墓がありました。

この3つの墓石は相撲取りの墓と言われています。
古い家が所々に残っています。
松原宿は全体的にこじんまりとした印象ですが、
彼杵宿と大村宿という大きな宿場に挟まれた場所なので
これぐらいの規模で十分だったのかもしれません。


松原八幡への参道付近が宿場の中心にあたる場所です。
かつては旅籠として営業していた建物が今も残ります。
昭和40年代までは民宿としても営業していたそうです。
やがて、石渡りだったという郡川を渡ります。
シーボルト曰く、
「深くはないが時には急流になる」
「大きな玄武岩が横に並べてあって」と記しています。


郡川は大村市を流れる最大の川で、
その流域は早くから開けていた場所でした。
西九州新幹線の線路を横目に見て国道沿いへ。
JR竹松駅付近では平坦な直線が続きます。
この直線は元は馬場だった頃の名残りで、
江戸末期に桜が植えられ「桜馬場」と地名に残ります。


華やかなものがあった一方で、
この付近は「郡崩れ」の中心的な場所だったことで、
処刑されたキリシタンに関する遺跡が点在しています。
直線が終わり国道と分かれて旧道に入ると、
城下町特有の曲がり角が多い道筋となります。

途中、大曲には自衛隊駐屯地があるのですが、
街道沿いには小さな店が並んでいて賑やかでした。
主に駐屯地客向けに商売をしているのかもしれませんね。


大村家の菩提寺である本経寺を過ぎても、
大村宿まではまだ少し距離があります。
大上戸川を渡ったあたりが大村宿の入口。
アーケードには長崎街道の文字が刻まれていました。
