2021年11月04日

長崎街道その14・千綿駅→松原宿→大村宿

千綿駅から暫くは山側を進みます。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

駅周辺には一見すると雰囲気良い旧道がありますが
これらは残念ながら長崎街道ではありません。
国道建設などの影響で地形が随分変わっているのです。

旧道は小学校付近から復活しています。
うどん坂の急坂を下った先が江の串地区です。

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江の串は古墳時代から開けていた場所で、
近世では大村藩によって斜面開発が行われています。

山には立派な段々畑を見渡すことができますが、
畑に草木が生え揃っているところを見ると、
廃れてしまったものが多いようです。

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あぜ道のような道筋が続きます。
日陰でない場所は草の生え方が激しいです。

かつては多くの人が通っていたであろう道も、
年月が経てばこのようになるのは仕方ないですが、
往時の様子は手記などで伺い知ることができます。

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シーボルト曰く、
「千綿街道は湾沿いに続く丘の険しい斜面の〜」
と記すように斜面にへばり付く道筋が続いています。

才貫田地区の旧道は特にそのような場所だったようで、
街道の道筋は谷を越えるために山側に巻いていたりと、
大きく蛇行する様は険しさを象徴しています。

現在は一部を除いて廃道となっています。
簡単なレポートはヤマレコの記録をご覧ください。

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大村線の踏切を渡って海側へ。
元は島だった頂きに「さや御前」があります。

特長的な御神体の姿を見てもわかるように
性の神様として慕われているそうです。

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松原宿が近づいてきました。
宿場の出入口には刑場や墓があることが多いですが
松原宿においても例外ではなく広大な墓がありました。

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この3つの墓石は相撲取りの墓と言われています。

古い家が所々に残っています。
松原宿は全体的にこじんまりとした印象ですが、
彼杵宿と大村宿という大きな宿場に挟まれた場所なので
これぐらいの規模で十分だったのかもしれません。

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松原八幡への参道付近が宿場の中心にあたる場所です。
かつては旅籠として営業していた建物が今も残ります。
昭和40年代までは民宿としても営業していたそうです。

やがて、石渡りだったという郡川を渡ります。

シーボルト曰く、
「深くはないが時には急流になる」
「大きな玄武岩が横に並べてあって」と記しています。

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郡川は大村市を流れる最大の川で、
その流域は早くから開けていた場所でした。

西九州新幹線の線路を横目に見て国道沿いへ。
JR竹松駅付近では平坦な直線が続きます。

この直線は元は馬場だった頃の名残りで、
江戸末期に桜が植えられ「桜馬場」と地名に残ります。

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華やかなものがあった一方で、
この付近は「郡崩れ」の中心的な場所だったことで、
処刑されたキリシタンに関する遺跡が点在しています。

直線が終わり国道と分かれて旧道に入ると、
城下町特有の曲がり角が多い道筋となります。

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途中、大曲には自衛隊駐屯地があるのですが、
街道沿いには小さな店が並んでいて賑やかでした。
主に駐屯地客向けに商売をしているのかもしれませんね。

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大村家の菩提寺である本経寺を過ぎても、
大村宿まではまだ少し距離があります。

大上戸川を渡ったあたりが大村宿の入口。
アーケードには長崎街道の文字が刻まれていました。

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posted by にゃおすけ at 14:30 | Comment(0) | 長崎街道 | 更新情報をチェックする
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