2023年03月27日

長崎街道その15・大村宿→鈴田峠→諫早

大村城下は南と北では風情が少し変っていて、
南は大村城(玖島城)と武家屋敷が広がります。

これに対して宿場の位置は北に当たり、
長さ約536mの間に700軒近い家があったそうです。

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↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

明治以降の大村は軍都として栄えました。
おかげで鉄道は早い段階で開通する利点がありましたが、
先の大戦では空襲により町が破壊されてしまいます。

中心部に古い家が残っていないのはこれが理由で、
旧家を見るには少し離れないと難しいようです。

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武家屋敷地区を大きく迂回するような道筋で、
大村城下から遠ざかっていきます。

旧円融寺跡である春日神社を過ぎれば、
町の外れになり広大な墓地の中を進みます。

墓地とはいえ眺めは一級品です。

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荒川坂、亀山坂、岩松坂といった坂が続きます。

名前が付く坂は大抵いわれがあるものです。
そして斜度が急であることが多い気がします。

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坂の途中でこれから進む道筋が見えることがありますが、
その長く続く一本道はもちろん長崎街道です。

一見すると何気ない道に見えますが
「この道は長崎に繋がってる」と思うと
格の違いがあるように見えるのは気のせいでしょうか。

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JR岩松駅近くにあった鈴田番所跡を過ぎると
日置峠という小さな峠が目の前に現れます。

ただ、峠のピークは崖崩れなどで通行困難な上に、
戦時中に工場疎開用のトンネルが建設されたことで、
道筋の痕跡がわかりづらくなっています。

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ここは迂回するのが賢明です。

峠道のすぐ横には平坦な県道が通っているおかげで
それほど労力をかけず迂回することができます。

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にしても、昔はなぜ峠道を経由していたのでしょう?
すぐ横に平坦な場所があるというのに・・・。

これは峠のすぐ横を流れる鈴田川の影響で、
昔は今のように治水が発達していなかったので、
険しくても安全な山道を選ぶことが多くありました。

「急がば回れ」とはよく言ったものです。

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そういうことから次の古松集落までの道筋もまた、
鈴田川の影響で天保年間を境に大きく変わっています。

この地域では昭和32年にも大きな水害がありました。
多良岳からの大量の水が大岩を転がしながら流れ込んで、
家はおろか道や線路までも押し流したといいます。

もっとも、鈴田の「鈴」とは、
長崎弁で水が溢れることを「すずれる」と言うそうで、
鈴田は「氾濫で水があふれた所」という意味があります。

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鈴田峠への道筋。

途中までは舗装してありましたが険しいもので、
日の当たる場所では軽い藪となっていました。

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下の写真は「武士の墓」と呼ばれるもの。
大村藩主からの命を受けて、命を成し遂げての帰路、
大雪の峠道で動けなくなり亡くなったといいます。

さぞや、報告ができず無念だったことでしょう。

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遠くに大村の町が見えました。
ここからが本格的な峠道となります。

足元には立派な石畳が残っていました。

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こういう場所ではちょっと一服したいものですが
季節的に藪蚊が多くて休むことを許してくれません。

止まれば顔の周りにまとわりついてきます(涙

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鈴田峠には立派な硯石がありました。

眺望はないですが広々とした空間で
昔の峠を彷彿させるものがありました。

ここまでは土道ながらも道幅が広いのですが、
峠から先は狭くなり新道と分かれる形になります。
ちなみに、ここで言う新道とは地理院地図にある道で
車両を通すために明治以降に整備した道を指しています。

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大渡野番所跡。

江戸道は一見すると登山道のような様相ですが、
それ以上に新道はどこを通っていたかわからないほど
消滅しているようで辿るには困難なように見えました。

新しい新道が廃れて古い道が復活するという逆転現象ですが、
実は他の街道でも時折り見かけることがあります。

例えば、熊野古道の小辺路の一区間においては、
新道は災害で破壊されたので旧道が復活した事例がありました。
もしかすると、ここも災害系だったのかもしれませんね。

やがて視界が広がると諫早側の出口となります。

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出口を振り返って撮影したのが上の写真。
パッと見た感じでは峠の入口がどこか分からない状態で、
鬱蒼と木々が生い茂ってるのがわかると思います。

ここから先は諫早市街地に向け下っていきます。

ある程度、標高があるので眺めは良いもので、
雲仙普賢岳を薄っすらと見ることができました。

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巨石だけが残る石茶屋と呼ばれた休憩所跡。
”ところてん”が名物だったといいます。

ほどなく進むと永昌宿。
永昌宿は実質”諫早”と言っても良い場所ですが、
それは市域が広域になった今だから言えることです。

諫早城下を含む中心部はまだまだずっと先。
ここにあった集落の名前から永昌宿と呼ばれていました。

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今の時代から見れば中途半端と思える場所ですが、
諫早城下を通らせないための防衛上の理由があったり、
諫早に寄らないことからショートカットできることで
距離面で大いに利点があったと思われます。

ちなみに、現在の永昌宿は崖地だったことから
大規模に削られ地形が変わり昔の面影はないようです。


  

   

   
posted by にゃおすけ at 08:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 長崎街道 | 更新情報をチェックする
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