車を運転する人なら阪神高速の出入口があるので
なんとなく知ってる人はいるかもしれません。
今回の大和田街道は尼崎と堂島を結ぶ道です。
尼崎から先は西国街道を経て九州へも繋がっていたり、
黎明期の阪神工業地帯を支えた役割があったりと、
歴史を紐解いていくと重要な道だったことがわかります。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
毎度おなじみの辰巳橋。
市の境目で一見すると何気ない橋に見えます。
ところが、この付近には辰巳橋遺跡が存在していて、
鎌倉時代から江戸時代にいたる多量の遺物が出土しています。
「東大寺兵庫北関入船納帳」に往時の様子が描かれていて、
船夫・問屋筋の人が多く住み街道筋の繁栄ぶりがうかがえます。
ここは大和田街道と尼崎街道が交わる場所でした。
かつては新田が広がっていた地域は近代になると一変します。
1928年に浅野財閥が設立した尼崎築港株式会社による築港開発で、
一気に周辺の工業化が進められていきます。
ただ、問題点がいくつかあり、その一つが工業用水の確保でした。
それは地下水を使うことで解決しようとするのですが、
長期に渡ってくみ上げた結果、地盤沈下が発生してしまいます。
結果、周辺の町はゼロメートル地帯になってしまい、
大雨や高潮に対して脆弱になってしまうことに。
街道沿いにある左門渡川や神崎川の堤防が頑丈なのは
そういう苦労があったということの証といえるもので、
当然ながら治水対策で川の流れが大きく変わっています。
そもそも、大和田街道は狭義の意味では
明治41年12月に西成大橋が竣工し大正15年淀川大橋の竣工までの
短い間の街道の名称で現在の国道2号並みの輸送路でした。
もちろん、それ以前も大和田道などと呼ばれていたのですが、
江戸期と明治以降とでは随分とルートが違っています。
今回は江戸期のルートであることをご承知おきください。
例えばこの千北橋付近。
かつては川に沿った自然堤防上を大回りする形で街道がありました。
明治以降になると工業地帯化などによる輸送需要に対応するために、
それ相応の道が整備されることになります。
その結果、千北橋を渡ってショートカットする形で
大和田地区の中心を貫く新道が作られることになったわけです。
千船駅が見えてきました。
この千船駅は1921年に佃駅と大和田駅を統合したもので
統合した理由は佃、大和田のそれぞれに駅を設けては
高速運転する上で駅間が短かすぎたことが考えられます。
当時は何もなかった千船駅周辺。
集落と集落の中間地点に駅が統合してしまったことは、
両住民にとってさぞや不便だったことでしょう。
千船大橋で神崎川を渡ると大和田地区に入りますが、
ちょうど渡った辺りに大和田駅がありました。
大和田は古くからの地名で和歌にも詠まれている他、
中世には大和田城があった場所と知られています。
集落自体は旧大和田川沿った南北に長い形で
旧大和田駅は一番北側に位置してありました。
明治の地図を見ると比較的大きな町だったようですが、
先の大戦で大部分が焼け野原になってしまいます。
古い家々が残っていないのはこのためです。
この辺りは神崎川支流である大野川沿いを進んでいました。
現在は埋め立てられ川の痕跡が少なくなっていますが、
途中で道は右岸から左岸へと移り姫島へ入っていたようです。
今回はここまで。
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