2024年12月09日

【街道シンポジウム】長浜街道が凄かった件

街道シンポジウムに参加してきました。
会場は近江にある長浜街道です。

この街道は一見すると村と町を結ぶ生活道なのですが
道中には谷汲山の道標が数多く置かれていて、
西国三十三カ所の巡礼道の側面もありました。
ようするに結構重要な道だったんですね。


↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。

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ここは北国脇往還春照(すいじょう)宿。
関ヶ原から木之本へと抜ける参勤交代路上の宿場町。

長浜はご存知の通り秀吉によって活気づいた城下町で、
江戸時代においても大いに賑わった町でした。
北国脇往還沿線からは幾重にも道が長浜へ延びていて、
その一つが、今回の長浜街道というわけです。

ちなみに長浜街道は別名で朽木街道とも呼ばれます。
朽木は湖西地方の地名なので不思議ではあるのですが
朽木氏が当地で何かの事を成したことが由来のようです。

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追分には八幡神社が鎮座しています。

「右 北國 きのもと えちぜん道」
「左 ながはまみち」

彫が深く美しいもので
街道の起点に相応しい立派な道標です。

春照という名は古くは水上と書かれていました。
伊吹山南麓の水の上という意味なんだそうです。

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振り返れば伊吹山。
今回は東から西に向かって歩きました。
峠以外は緩やかな下り坂で歩きやすいのが利点ですが、
西からだと雄大な伊吹山を見ながら歩けることを考えると、
東に向かって歩く利点も大いにありそうです。

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旧東海道線を横切ります。
一見するとただの道路なのですが、
かつてはSLが爆走する光景が見れたことでしょう。

鉄道黎明期の東海道線は一部ルートが違っていて、
関ヶ原からは北国脇往還に沿って長浜へ延びてました。
長浜からは蒸気船で大津だったようです。

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今回、歩くにあたっての資料は
マイナーな街道なためか殆ど見当たらず、
地理院地図の明治前期のものを主に参考にしています。

明治の地図は今昔マップが便利なのですが、
それは大抵は明治後期のもの。前期とは大きく違います。
地理院地図のサイトでは去年あたりから申請さえすれば、
前期の地図も閲覧できるようになったのは嬉しいことです。

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ただ、今回の区間においては
鉄道は明治初期の早い段階から開通しているので、
江戸時代の姿を知るには難しい状況がありました。
まー、これは仕方のないところです。

この写真の辺りでは、
明治初期の地図は野一色、小田集落を経由する道筋です。
なぜ迂回するような道になっていたか謎が残りました。

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赤文字が新道(新ルート)と思われます

ちなみに後期になると新道が作られていて、
今回我々が歩いたような道筋となっています。

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近江といえばこういう建てかたの家が多いですね。

家紋に見える場所には「水」と書いてるものもあって
火事にならぬようおまじないの意味があります。

また、古い家々は京風の佇まいが多く、
外観の柱はベンガラで朱色に塗られていたりします。
あと、親柱が横に少し突き抜けてるのも特長的です。

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観音寺坂峠の手前には観音寺。

ここで小僧をしていた石田三成が、
秀吉にお茶を出したという話はとても有名ですね。

山門からの参道は非常に長いもので、
家が並んでいたであろう石積みの痕跡もあることから
多くの人に親しまれていたことがわかります。

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なぜ、秀吉がこんな場所を通っていたのか。
そもそも天正元年〜天正10年まで長浜にいました。
ここを通ること自体は不思議ではない話です。
長浜街道は尾張美濃への近道になっていたので、
信長の居城との往来も多かったものと思われます。

そして出会いは天正二年。
鷹狩りの途中で立ち寄って茶を所望。
この出会いがなければ三成は坊主のまま!?
かなり歴史は変わっていたことでしょう。

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三成がお茶の水を汲んだと言われてる井戸

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観音寺の手前にあった道標

「右 さめが井 左 たにぐみ」

醒ヶ井は中山道の宿場町です。
観音寺山に沿って南下していく道のようです。

ここにも街道の起点である春照の文字がありません。
(もっとも起点と定義したのは我々ですが・・・)
全区間通しても全く見かけなかったことから、
やはり巡礼道である役割が大きかったように見えます。

ちなみに竹生島は30番札所で谷汲さんは33番札所です。
31番札所、32番札所は近江八幡の辺りにありますので、
順番は無視して先に谷汲に行く人が多かったのでしょう。
関西民にとってはそのほうが効率的ですもんね。
最後には高野山が待ってますし。

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峠道の入口。
獣除けのフェンスがあって開けてから中へと入ります。

峠道なので登山道と比べると緩やかです。
立派な切通しを見るに通行量もあったことが伺えます。

現在の状況は峠を境に西側は、
横山城探索や縦走路への取りつき道の役割があるからか、
東側に比べ整備が行き届いていた感じはありました。

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琵琶湖が見えました!

峠道出口の集落に茅葺き民家を見て平坦な道を進むと、
農地改良によって旧道が消滅した箇所が所々で見られます。

やがて、石田集落。三成公が生まれた地です。
各所に関ヶ原西軍武将のいわれの案内看板があったりと、
三成ファンは訪れてみるべき場所でしょう。

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宮司町は日枝神社の門前町。
この辺りでは伊吹山系の御神水が涌き出でいるとのこと。

先には雰囲気ある醤油のお店がありましたが、
恐らくはこの綺麗な水で作られているのでしょう。
そう思うとちょっと買ってみたくなります。

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街道は神社のある集落を縫うように、
お次は秋の気配たっぷりの八幡宮です。

下の立派な灯篭は50m東の街道上にあったもの。
往時は街道をゆく人々を照らしていたことと思います。

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この辺りから長浜市街地へと入っていきます。
古い家々が多く関西で人気のスポットです。
随分と前ですが新快速が長浜に来るようになって
一気に脚光を浴びたと記憶しています。

大河ドラマ豊臣兄弟も実に楽しみです。

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大通寺をかすめるようにして北国街道との追分へ。
ゴール手前は立派なアーケードが続いていました。

最後に思ったこととしてまして、
街道歩きは歩くスピードでの視点なので、
その遅さだからこそ気付くことが多いものです。

ゴールしてから車でほぼ同じ道を戻ったのですが、
ワープ感が半端なく目が回るようでした。

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やはり歩きは点だけでなく線も楽しむことができるもので、
長く時間をかけるほど知識を得れるものだと痛感しました。
そう考えると究極はそこに住むのが一番なんでしょうけど。

以上、今回の街道シンポジウム街道歩き編でした。
10周年おめでとうございます!



posted by にゃおすけ at 08:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 街道シンポジウム | 更新情報をチェックする
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