会場は近江にある長浜街道です。
この街道は一見すると村と町を結ぶ生活道なのですが
道中には谷汲山の道標が数多く置かれていて、
西国三十三カ所の巡礼道の側面もありました。
ようするに結構重要な道だったんですね。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
ここは北国脇往還春照(すいじょう)宿。
関ヶ原から木之本へと抜ける参勤交代路上の宿場町。
長浜はご存知の通り秀吉によって活気づいた城下町で、
江戸時代においても大いに賑わった町でした。
北国脇往還沿線からは幾重にも道が長浜へ延びていて、
その一つが、今回の長浜街道というわけです。
ちなみに長浜街道は別名で朽木街道とも呼ばれます。
朽木は湖西地方の地名なので不思議ではあるのですが
朽木氏が当地で何かの事を成したことが由来のようです。
追分には八幡神社が鎮座しています。
「右 北國 きのもと えちぜん道」
「左 ながはまみち」
彫が深く美しいもので
街道の起点に相応しい立派な道標です。
春照という名は古くは水上と書かれていました。
伊吹山南麓の水の上という意味なんだそうです。
振り返れば伊吹山。
今回は東から西に向かって歩きました。
峠以外は緩やかな下り坂で歩きやすいのが利点ですが、
西からだと雄大な伊吹山を見ながら歩けることを考えると、
東に向かって歩く利点も大いにありそうです。
旧東海道線を横切ります。
一見するとただの道路なのですが、
かつてはSLが爆走する光景が見れたことでしょう。
鉄道黎明期の東海道線は一部ルートが違っていて、
関ヶ原からは北国脇往還に沿って長浜へ延びてました。
長浜からは蒸気船で大津だったようです。
今回、歩くにあたっての資料は
マイナーな街道なためか殆ど見当たらず、
地理院地図の明治前期のものを主に参考にしています。
明治の地図は今昔マップが便利なのですが、
それは大抵は明治後期のもの。前期とは大きく違います。
地理院地図のサイトでは去年あたりから申請さえすれば、
前期の地図も閲覧できるようになったのは嬉しいことです。
ただ、今回の区間においては
鉄道は明治初期の早い段階から開通しているので、
江戸時代の姿を知るには難しい状況がありました。
まー、これは仕方のないところです。
この写真の辺りでは、
明治初期の地図は野一色、小田集落を経由する道筋です。
なぜ迂回するような道になっていたか謎が残りました。

赤文字が新道(新ルート)と思われます
ちなみに後期になると新道が作られていて、
今回我々が歩いたような道筋となっています。
近江といえばこういう建てかたの家が多いですね。
家紋に見える場所には「水」と書いてるものもあって
火事にならぬようおまじないの意味があります。
また、古い家々は京風の佇まいが多く、
外観の柱はベンガラで朱色に塗られていたりします。
あと、親柱が横に少し突き抜けてるのも特長的です。
観音寺坂峠の手前には観音寺。
ここで小僧をしていた石田三成が、
秀吉にお茶を出したという話はとても有名ですね。
山門からの参道は非常に長いもので、
家が並んでいたであろう石積みの痕跡もあることから
多くの人に親しまれていたことがわかります。
なぜ、秀吉がこんな場所を通っていたのか。
そもそも天正元年〜天正10年まで長浜にいました。
ここを通ること自体は不思議ではない話です。
長浜街道は尾張美濃への近道になっていたので、
信長の居城との往来も多かったものと思われます。
そして出会いは天正二年。
鷹狩りの途中で立ち寄って茶を所望。
この出会いがなければ三成は坊主のまま!?
かなり歴史は変わっていたことでしょう。
三成がお茶の水を汲んだと言われてる井戸
観音寺の手前にあった道標
「右 さめが井 左 たにぐみ」
醒ヶ井は中山道の宿場町です。
観音寺山に沿って南下していく道のようです。
ここにも街道の起点である春照の文字がありません。
(もっとも起点と定義したのは我々ですが・・・)
全区間通しても全く見かけなかったことから、
やはり巡礼道である役割が大きかったように見えます。
ちなみに竹生島は30番札所で谷汲さんは33番札所です。
31番札所、32番札所は近江八幡の辺りにありますので、
順番は無視して先に谷汲に行く人が多かったのでしょう。
関西民にとってはそのほうが効率的ですもんね。
最後には高野山が待ってますし。
峠道の入口。
獣除けのフェンスがあって開けてから中へと入ります。
峠道なので登山道と比べると緩やかです。
立派な切通しを見るに通行量もあったことが伺えます。
現在の状況は峠を境に西側は、
横山城探索や縦走路への取りつき道の役割があるからか、
東側に比べ整備が行き届いていた感じはありました。
琵琶湖が見えました!
峠道出口の集落に茅葺き民家を見て平坦な道を進むと、
農地改良によって旧道が消滅した箇所が所々で見られます。
やがて、石田集落。三成公が生まれた地です。
各所に関ヶ原西軍武将のいわれの案内看板があったりと、
三成ファンは訪れてみるべき場所でしょう。
宮司町は日枝神社の門前町。
この辺りでは伊吹山系の御神水が涌き出でいるとのこと。
先には雰囲気ある醤油のお店がありましたが、
恐らくはこの綺麗な水で作られているのでしょう。
そう思うとちょっと買ってみたくなります。
街道は神社のある集落を縫うように、
お次は秋の気配たっぷりの八幡宮です。
下の立派な灯篭は50m東の街道上にあったもの。
往時は街道をゆく人々を照らしていたことと思います。
この辺りから長浜市街地へと入っていきます。
古い家々が多く関西で人気のスポットです。
随分と前ですが新快速が長浜に来るようになって
一気に脚光を浴びたと記憶しています。
大河ドラマ豊臣兄弟も実に楽しみです。
大通寺をかすめるようにして北国街道との追分へ。
ゴール手前は立派なアーケードが続いていました。
最後に思ったこととしてまして、
街道歩きは歩くスピードでの視点なので、
その遅さだからこそ気付くことが多いものです。
ゴールしてから車でほぼ同じ道を戻ったのですが、
ワープ感が半端なく目が回るようでした。
やはり歩きは点だけでなく線も楽しむことができるもので、
長く時間をかけるほど知識を得れるものだと痛感しました。
そう考えると究極はそこに住むのが一番なんでしょうけど。
以上、今回の街道シンポジウム街道歩き編でした。
10周年おめでとうございます!