江戸の将軍家に献上するために運ばれた街道で、
「御鮨街道」とも「鮎鮨街道」とも呼ばれてました。
また、岐阜と名古屋を結ぶ役割もありました。
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
岐阜街道は美濃路との四ツ谷追分から始まります。
御鮨を運ぶことを考えると岐阜から歩くと良いのですが、
当ブログでは、その辺りはあまり気にしません。
差しあたっては「届けた後の帰り道」です(^^;
追分100m手前には「左 京都」と書かれた
文政年間の道標が移設されて立っています。
この時代に「都」表示はちょっと珍しいですよね。
GWの混雑とは無縁の街道歩き。
心地よい気候とともに懐かしい風景を堪能。
この辺りは昔も田畑が広がっていたみたいで、
炎天下だと歩くには非常に堪える区間です。
そのため、松並木が植えられていました。
松並木は植えたら植えっぱなしではなく、
維持していく必要があるので経費が掛かります。
この点からも岐阜街道の重要さがわかります。
道路の片側の舗装が剥がれて路盤が剥き出しに。
「ひゃっほー、江戸時代の道が出てる!」
と、喜んではいけません。
大抵は土砂が堆積して地中深くの位置だったりします。
なので、工事とかで道路を掘り下げて見えてると
昔の路盤が露わになってたりするので面白いものです。
やがて、最初の宿場の一宮宿へと入ってきました。
古くは鎌倉街道、美濃路や巡見道が通る交通の要衝で、
街道沿いの村々には市が立ち、大いに賑わったそうです。
河川を利用して運ぶ物資や人の流れもありました。
その中心というべき場所にあるのが「真清田神社」
尾張国一宮です。一宮は熱田神宮ではないのです。
格式的には上なんですが不思議ですよね。
門前では3と8の付く日に開かれてた「三八市」が
享保年間から戦後すぐまで続いていました。
その賑わいは遠くは信州や越中商人も訪れるほどで、
今も市の面影を商店街に見ることができます。
この日は大きな祭りがあって、相当な賑わいでした。
奥にあるウバ車屋、懐かしいですね。
東海地方には木の網で組んだ乳母車を見かけましたが、
今の時代はめっきり見なくなってしまいました。
赤ちゃんはベビーカーという時代なので、
需要そのものが無くなったのは寂しいところですが、
役目を終えた乳母車は、畑仕事の荷物移動に使ったり、
手押し車的に使ってる人が僅かながらいます。
ノコギリ屋根の工場の跡でしょうか。
一宮は空襲の被害が大きかったところで
古い建物は中心部に殆どないのが寂しいですが、
少し離れれば散見することができました。
さぁ、次なる宿場は黒田宿です。
集落の入口に立派な愛宕さんが置かれています。
火除けの神として宿場の出入口にあることが多いですが、
これがあるのは規模が大きい証拠。期待が膨らみます。
黒田宿は古くから宿場として発展し、
木曽川水運の物流の拠点でもありました。
山内一豊の生誕地としても知られています。
写真の木曽川資料館は大正13年築。
木曽川町会の議事堂として建てられています。
隣には今は亡き庁舎があったのですが、
議事堂が庁舎内に併設していない&現存の事例は
全国的に極めて珍しいものなのだそうです。
黒田宿を過ぎると木曽川を渡りますが、
川の手前にある、この分岐。非常に悩みました。
双方とも道の先で追分道標に繋がりますが、
左は急な勾配で、右は緩やかな勾配という道。
ただ、右は明治初期の地図には載っていません。
恐らく右の道は車を通すための新道と思いますが、
そうだとすると追分道標の位置が悩ましいのです。
彫の深い立派な道標。津島の文字が見えます。
道標は街道と街道の分岐にあるものなので、
設置場所を考えると、右が正解ではあるのですが、
前述の通り昔の地図には右の道が無いのですよね…。
しかしながら、
道標の土台を見ると移設した形跡があるので、
結論として左の道が正解と私は考えました。
そうなると本来の追分は20m程、清州方というわけです。
木曽川を前にした風情は良いですね。
明治天皇巡幸の際は川に舟橋が架けられています。
この先が宝江の渡し場の跡で、
その手前には川原町が形成されていたそうです。
木曽川橋は1937年(昭和12年)に竣工。
1964年に歩道橋が併設されています。
車を気にせず安全に歩けるのは良いのですが、
川面からの高さがあるので下を覗くと、
何かが上にあがったような感覚に陥ります。
あと、スマホを落とさないかが怖いですね。
遠くに岐阜城が見えました。
岐阜街道のゴールは城のふもとにあたります。
その2に続きます。
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