鮎鮨がどのように運ばれたか真相に迫ります!!
↑詳しいルートと記録は【山行記録のページへ】もご覧ください。
笠松宿は木曽川水運で賑わった地域物資の集散地。
岐阜県庁も置かれ岐阜の中心だった時期がありました。
笠松側の渡し場跡を見ても立派な石畳が残ります。
今ある石畳は明治天皇巡幸の折に改修したものですが、
改修前は、大八車の車輪がくいこまないよう
丸石を使ったものが敷き詰められていたそうです。
重厚な旧家があちこちに。
笠松は今の時代は競馬の印象が強いですが、
歴史を知ると競馬は小さな一コマに過ぎないのです。
とはいえ、古老にオグリキャップのことを聞くと、
「柵によじのぼって見ていたよ!」と熱く語られ、
当時の競馬人気は相当なものがあったようです。
もう一つ、町全体で盛り上がってたの?と聞くと、
実はそうでもなかったという応えが。
意外でしたが、ギャンブル嫌いは一定層いますし
町をあげてというわけにはいかなかったのでしょう。
鮎鮨が入ったこの容器を背負って運ばれ、
江戸に着く頃には発酵して丁度食べごろでした。
この1615年から続く伝統行事は
毎年5月から9月ころまでの間に10〜20回あって、
各宿場通過は厳密に時間指定されてたといいます。
笠松から先は岐阜城を見ながらの道中です。
写真の辺りは周りと若干高い位置に道があります。
川の流路が変わったという記述がありますし、
もしかすると旧堤防の活用なのかもしれません。
古い家々には輪中地帯のような、
石積みで嵩上げされた上に建てられたのもあり、
水害が多い場所であったことが想像できます。
加納宿は美濃16宿のうち最大で中山道の宿場町。
商工業が盛んで人や物の往来が激しかったそうです。
先の大戦では岐阜市内の空襲が酷かったので、
中心部に近づくほど古い家は見かけないのですが、
加納では幾つか見ることができます。
「西京」とは、京都の意味。
明治初期に「東京」の文字と共に追加されています。
道標自体は江戸中期のもの。面白いですね。
中山道加納宿まちづくり交流センター。
以前ここに文化遺産だった加納庁舎がありました。
戦前のコンクリ建築は煤汚れが酷くて、
見栄えは悪かったですが建物は立派でした。
係の人に庁舎のことをお聞きすると、
「子供の頃は怖くて近寄れなかった!」と。
そんな建物はストリートビューの過去で見れますが、
その方法を教えると、大層驚かれていました。
この後は、平和資料館を見学して岐阜市中へ。
今回も明治地図を見ながら歩きましたが、
さすがは大都市なだけあって家の密集度は高く、
道も碁盤状にあってこれまでの町とは大違いです。
途中で、名鉄各務原線の踏切を渡りますが、
実は旧省線時代の東海道本線跡だったりします。
こういう思わぬ発見があるから楽しいものです。
戦災で一面焼け野原だった岐阜中心部ですが、
街道は町の中心部から山側に少し離れているので、
古い家をちらほらと見かけることができます。
岐阜市内の古い町並みというと川原町が有名ですが、
この辺りの風情も良いものがあります。
鮎鮨を作っていたとされる御鮨処。
今は案内看板すらなく殺風景な感じの場所ですが、
ここは間違いなく、重要な場所。
徳川家康が長良川の鵜飼を観賞して
その時食べた鮎鮨を好きになって以来、
諸家への献上、尾張藩御用にこの場所で作られ、
岐阜街道を使って届けられました。
街道歩きを終えたあとは
川原町散策と”うかい”ミュージアムへ。
今回の見どころは大きく分けて3点ありました。
・一宮界隈の賑わい
・旧岐阜県庁もあった笠松
・岐阜市中の旧家群
久しぶりの街道歩きなので短めな距離でしたが、
見どころが豊富で中身の濃い街道歩きとなりました。
以前は、1日30キロベースで計画してましたが、
これぐらいの距離が丁度良いなと改めて思います。
そういや、愛知に入ってから帰りの電車に乗るまで、
大阪では嫌ほど見るミャクミャクを見ていません。
もしかして盛り上がってるの関西だけ?
と、温度差を感じずにはいられませんでした。
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